今朝の取《と》り定《き》めを、再びそこに持ち出した。
「ほだね。ほうしっと、東京さは、何時《いつ》着ぐの?」
 菊枝の心の動きは、今は判然と決定されていた。誓《ちか》ったとは言え、今朝の約束までには、自分の心のどこかに、自分ながら、疑わしい分子が折々頭を擡《もた》げていた。併し今は、なんの疑いもない決意に満たされていた。彼女は心に一種の衝動を感じた。全身が微かに顫《ふる》えた。
「ほんじゃ、二時半までにゃ、停車場さ来んのだぞ。俺、先に行って、切符買って置っから…… ここの停車場でなぐ中新田《なかにいだ》停車場さ。」
「着物なんかはあ、なじょしんべね?」
「着物なんか、東京さ行ったら、俺、いい流行の着物買ってけるから……」
 いつか二人の手は、仄暗《ほのやみ》の中に握り合わされていた。

     六

 六社様の祭日の九時頃、菊枝は、朝仕事が済むと次の間で、母の嫁入りの時のだった古|箪笥《たんす》から、二三枚の木綿の着物を取り出して、それに顔を押し当て泣いていた。母の位牌《いはい》の前には、線香が悠長に燻《くすぶ》っていた。
 そこへ、婆さんが、二つの新聞紙包みを持って、痛む足を曳《ひ
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