岡さ寄れよ。俺《おら》、真っすぐに田さ行んから(父つぁんは田さ真っすぐに行ぎした)って……」
 春吉が背後《うしろ》から声をかけたが、菊枝は何も答えなかった。彼女の眼には、いっぱい涙が溜まっていた。
 本当に、豊作《とよさく》さんの言った通りだ! と菊枝は思った。「馬鹿らしくって、こんな田舎にゃあいられねえ。東京さ行って電車の車掌にでもなれば、まさかこんなに、牛馬のように使われねえだって。それにこうしてたんじゃ、いつ一緒になれるか判んねえし……」こう豊作が、今朝、田の水を見に来て、彼女に草刈りを手伝いながら言った言葉が、今、菊枝の心に再び判然と浮かびあがって来た。
 豊作の家も、菊枝の家と同じように、貧しい、小さな小作百姓だった。なまじっか小作百姓をしているおかげで、豊作も菊枝も、日傭《ひでま》を取りに行く日でさえも、短い夏の夜を、暗いうちに起きて、朝のうちに自分の家の仕事をして行かねばならなかった。
 豊作さんは、あんなに言ってくれるんだがら、一層のことあの人と一緒に東京さ行ってしまおう! 菊枝は手拭《てぬぐ》いの端を噛みしめながらこう呟《つぶや》いて、力なく歩いて行った。
 パラソル一本買ってもらわれねえなんて。――そうだわ、そうだわ、豊作さんの言った通りだ。「俺等《おらら》みでえなもの、こんな田舎にいたんじゃ、うだつがあがらねぇ。田作れば小作料が高《たげ》えくって、さっぱり徳がねえし、馬鹿馬鹿し。日傭《ひでま》稼ぎに行ったって賃金が廉《やす》いし、なにしたって、売るもの廉ぐって、買うもの高《たげ》んだから、町の奴等ばり徳さ。」と言った豊作の言葉を彼女は実際だと思った。
 町の人達が、田舎の金をみんな持って行ってしまうことは、爺さんも言っていた。自分の町場へ生まれなかったことを彼女は残念に思った。町場の娘達は、どんな貧しい家の娘でも、自分よりは幸福であるように彼女は思った。
 母さんが生きてでくれたら……と、菊枝は死んだ母のことを想い出した。涙がまた、ほろりとまろび出た。彼女は手拭いの端で眼を押《お》さえた。

     五

 その日、菊枝は一日中|憂鬱《ゆううつ》だった。
 明日は六社様のお祭りだ! 明後日は、祭りの翌日で、草臥《くたび》れ休みだ。彼方此方《あちらこちら》の田圃に散らばって田の草を取っている娘達は、皆んな歌ったり巫山戯《ふざけ》たり、大変な元
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