配はねえ。場合によっちゃあ、駐在所の巡査の正当防衛という報告だけで、警察本署のほうからなんざあ来るかどうか分からねえ。東京付近だと裁判所からまで来るそうだども、この辺じゃ警察の本署からとなりゃあ大変だからなあ。来てみて、まあ部長詰所から来るぐれえのもんだべど。そしてまあ、巡査部長の報告で、紀久ちゃんが裁判所へ呼ばれると同時に、おれたちもまあ証人に呼ばれんだべが、正当防衛ってことですぐ済むさ。泊められたって、調べがつくまでほんの三、四日のもんだべど」
 正勝はほとんど一人で喋《しゃべ》りつづけた。

       5

 陽《ひ》が輝きだすとガラス屑《くず》のような霜柱がかさかさと崩れて、黒土がべたべたと濡《ぬ》れていった。陽がその上にぎらぎらと映った。
 市街地の駐在巡査が黒土の庭へ駄馬を乗り入れて、コンクリートの露台の近くに寄ってきた。牧夫たちは露台のところに立って巡査を迎えた。巡査は馬の上から牧夫たちに言った。
「蔦代っていう娘は主人たちの部屋へ、どこから入ったらしいか分からねえかね?」
「入ったのはこの階段を上って、ここから……」
 牧夫の一人が前へ出ながら言った。
「足跡か何か残っていないかな?」
「なにしろ、おれらが鉄砲の音を聞きつけて土足でもってどかどかと駆け込んだもんだから、どれがだれの足跡だか、はあもう、てんで分かんなくなってしまって……」
 正勝が巡査の顔を見上げながら言った。
「それで、お嬢さんはどこにいるんだね?」
「お嬢さまは中にいますから……」
 正勝はそう言って、巡査の乗っている馬の轡《くつわ》を捉えた。巡査は手綱を放《ほう》って、馬から下りた。そして、長靴のままで露台へ上がっていった。
「それから済まねえが、その馬に飼葉をやっておいてくれねえかなあ。近所の馬を借りてきたんだから……」
 巡査は露台の上から、思い出したようにして言った。
「はあ!」
 正勝はそう言いながらその馬を牧夫の一人に渡すと、露台に駆け上がって巡査と一緒に部屋の中に入った。
 部屋の真ん中にはストーブが燃えていた。紀久子は真っ青な顔をして婆やに付き添われながら、そのストーブの前に腰を下ろしていた。
「紀久ちゃん! 警察が検《しら》べにおいでくださったから、なんでも本当のことを申し上げて……」
 正勝はそう言って、巡査と紀久子とを引き合わせた。紀久子は静かに腰を上げて、項垂《うなだ》れながら軽く会釈した。
「いったい、どうしたというんだね? あなたのお父さんを殺しておいてから、あなたまで殺そうとしたんだね?」
 巡査はストーブに寄って椅子《いす》にかけながら訊いた。
「はい、わたしが気のついたのは、蔦代が父を殺してしまったあとだったのでございます。父の唸り声で目を覚まして、蔦代が父の胸から短刀を抜いているのをわたしが見てしまったものですから、蔦代は急にわたしまでも殺してしまおうと思ったのだと思います」
「それで、あなたはすぐ、こっちから先に殺してやるという気になったんだね?」
「いいえ! その時は、どうかして逃げようと思ったのでございます。わたしが驚いて父の寝室のほうを見ていますと、蔦代は短刀を振り上げてわたしのほうへ飛びかかってきたものですから、わたしはすぐ逃げだしたのでございます。それでも、肩のところへ蔦代の短刀を握っている手が触れて、血糊がついたのですけど、わたしはできることならどうかして逃げようと思いまして、この部屋まで逃げてきたのですけど、ここまで来てもう逃げ切れなくなったものですから、鉄砲を取って逆に蔦代を威《おど》かそうとしたのでございます。そして、わたしはその時も、別に殺そうという気持ちはなかったのですけど……」
「しかし、鉄砲に弾丸が込まっていたことは前から知っていたんだろうがなあ」
「いいえ! わたしはここにかけてある鉄砲はみんな飾物としてかけてあるので、弾丸など込まっていないように思っていたのでございます」
「また、いろいろの鉄砲があるんだなあ。ほう! 刀も……」
 巡査はそう言って、そこの壁にかけられてある鉄砲や刀のうえに目を持っていった。
「ですから、わたしは鉄砲で蔦代の胸の辺りを突いて、蔦代を威かしてやろうと思ったのでございます。それなのに……それなのに……」
 紀久子はそう言って、涙ぐんだ。
「しかし、引金は引いたんだろう?」
「わたしは引いたような気もしなかったんですけど、やはり……」
「それじゃ、正当防衛としての殺人というよりは過失としての殺人で、どっちにしてもあなたには罪がないわけだ。しかし、一応は本署の調べも受け、裁判も受けなくちゃならんかもしれんね。そしてその時には、おれとだれか、この牧場のだれかが証人というわけになるだろうと思うが、いったい、いちばん先にこの現場を目撃したのはだれかね?」
「婆や! 婆やだったんでねえか? おれが入ってきたとき、婆やはもう来ていたから」
 正勝は横から説明した。
「婆さん! おまえさんかね?」
「はあ!」
 婆やは消え入るようにして言った。
「それで、おまえさんがこの部屋へ入ってきたとき、この紀久子さんはどんな風にしていたかね?」
「わたしはなんにも分かりませなんだ。わたしは入口のところで腰を……! 腰を……! 腰がもう立たなくなってしまって……」
「腰を抜かしたというのか? しかし、腰を抜かしたのは、何か腰を抜かすほど驚くものを見たから抜かしたんだろうが、その見たものを聞きたいんだ」
「はあ、わたしはなーに、この部屋へ入ってまいりましたとき、お蔦さんを熊が腹這《はらば》ってると思ったもんですかんね」
「しかし、蔦代というのが女中とすれば、おまえさんと一緒に部屋にでも寝ていたんだろうが、起きてくるとき蔦代のいなかったことには気がつかなかったのか?」
「なーに、お蔦さんは前の日にはいなくなっていたんですかんね。そんで、鉄砲の音がしたもんですから、熊が出たのをだれかが威かしてるのだと思うて、わたしは熊だあ! 熊だあ! って叫んで旦那さ知らせに来ましたら、足下に黒いものがいますもの、熊だと思ってしまって……」
「分かった。それで、蔦代が前の日からいなかったというのはどういうわけかね?」
「それは……」
 正勝はひと足前のほうへ出た。
「蔦代はわたしの妹でして、ここに遺書がありますが、一昨日この屋敷から逃げ出したのでございますが、途中から連れ戻って帰ったのでございます。そして、連れ戻りましてからこの事件まで、どこかに隠れていて姿を見せなかったわけです」
「だいたいそれで分かった」
 巡査はそう言いながら、正勝の手から蔦代の遺書を受け取って、それにひととおり目を通した。
「これによると主人を恨んでいたようだから、連れ戻されたことを悲観して、恨みのある主人を殺して、自分も死んでしまおうと思ったのかもしれないなあ」
「連れ戻ったときに、父が酷《ひど》く叱《しか》ったのでございます。それから急に姿を隠してしまって……」
「しかし、恨んでいる者を殺して自分も死のうというときに、自分の犯行を発見されたからといってその人まで殺そうとしたのは少しおかしいなあ。あなたはその時、親の仇というようなことを思わなかったかな?」
 巡査は首を傾《かし》げるようにしながら言った。
「いいえ」
「どうも少しおかしい」
「妹は旦那さまばかりでなく、お嬢さまも恨んでいたようなんです。旦那さまが叱ったのは知りませんけれど、連れ戻るときわたしが馬車のお供をしていたんですが、お嬢さまは馬車の中で酷く妹を叱っていましたから。それは兄として、傍で腹が立つほどでございましたから」
 正勝がまたそう説明した。
「それなら分かる。では、あなたは蔦代をそんなに叱るほど何か憎むようなことでもあったのかな?」
「いいえ! 蔦代は妹のようにかわいがっていたものですから、それが逃げたので、その場だけなんですけど急に腹が立ったものですから」
「それなら分かる。それではとにかく、本署まで一緒に行ってもらおう。そして、場合によっちゃ裁判も受けなくちゃならんかもしれんが、心配はなかろう」
「証人として、このわたしもまいったほうがいいというのでしたら?」
 正勝がそう横から言った。
「一緒に行ってもらおう。それに、いろいろ証拠品も持っていかなくちゃならねえからなあ。短刀と鉄砲と……それから……」
「死骸はどうしましょうか?」
「死骸は本署から来るのを待って片づけるのが本当だが、一つの死骸は犯人がはっきりと分かっていてその犯人が死んでいるんだし、他の一つの死骸はそれを殺した人が自首しているのだから、片づけてしまっていいだろう。本署から確かに来るものなら片づけずに待っていてもいいのだが、北海道の山奥じゃそんな例はあまりないからなあ。それより、馬車なりなんなり用意して、早く出かける支度をしてくれ。今日じゅうに本署へ着けなくなるぞ」
 巡査に促されて、正勝は露台へ出ていった。
「おーい! だれか早く馬車の用意をしてきてくれ。それから、旦那さまの死骸と蔦の死骸はすぐもう片づけていいそうだからなあ。おれはこれから警察へ行かなくちゃなんねえから、すぐ片づけてしまってくれ」
 正勝は露台の上から、牧夫たちへ声を高くして朗らかに言った。
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   第五章

       1

 正勝はなにも言わずに、侮蔑《ぶべつ》を含んで微笑《ほほえ》みつづけた。
(態《ざま》あったらねえ!)
 微笑みの底で、彼はそう呟《つぶや》いているのだった。
「正勝くん! きみは口が利けなくなって帰ってきたのか!」
 松田敬二郎はじりじりしながら叫ぶようにして言った。しかし、正勝はやはり口を開こうとはしなかった。そして、彼は鞭《むち》を振り振り不気味に微笑みながら、厩舎《うまや》の前を歩き回った。厩舎の前は泥濘《でいねい》の凸凹のまま、まったく凍ってしまった。コンクリートのように硬くなっていた。正勝は鞭を振り振り、蹄鉄《ていてつ》の跡のその硬い凸凹を蹴崩《けくず》した。その動作につれ、森谷牧場主森谷喜平の遺品の高価な鞭は陽《ひ》にきらめきながら、ぴゅうぴゅうと鳴った。
「そして、その鞭なんかだって、勝手に持ち出したりしていいのかい?」
 敬二郎の言葉はしだいに辛辣《しんらつ》になっていった。
(馬鹿野郎《ばかやろう》め! 自分の足下が崩れかけているのも知らずに、偉そうなことばかり喚《わめ》き立てていやがる)
 正勝はそう思いながらも、微笑を含んで黙りつづけた。
「五日も前に帰ってきているというのに、ぼくには会わないように会わないようにとしているし、せっかくここで会ったからと思って裁判の模様を訊《き》きゃあまったく口も利かず、わずか十日ばかりの間になんて変わり方だ。まったく驚いてしまうなあ!」
「驚くこたあねえさ! 変わるのはおればかりじゃねえんだ。いまにきみだって、おれ以上に変わるさ」
「おっ! 口が利けなくなって帰ってきたのかと思ったら、そういうわけでもないんだな?」
「おりゃあ、悪魔になってきた」
「悪魔に? それは面白いね」
 敬二郎は侮蔑的な微笑をもって言った。
「面白いことになるだろうとも。面白くて面白くて、涙が出るほど面白いことになるだろうから、待っているといいさ」
 正勝は投げ出すように言って、厩舎の前から放牧場のほうへ向けて歩きだした。
「正勝くん! きみはいま、ぼくのうえにも大変な変化があるようなことを予言したね。いったい、それはどんな意味なんだ?」
 敬二郎はそう言いながら正勝の後をついていった。しかし、正勝は黙っていた。黙々として正勝は鞭を振りながら、放牧場のほうへ歩いていった。
「正勝くん! どんな意味なのかはっきりと言わなくちゃ、何のことだか分からないじゃないか?」
「いまに分かるさ」
「いまに分かるって?」
「分るまいとしたって、いまに分からずにはいられなくなるのさ」
「何をいいかげんなことばかり言っているんだ」
 敬二郎は自暴自棄的に叫んだ。
「そんな風に考えてるうちが幸福なのさ。いまに、夢にもそんなことは考えられ
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