ていてくれ」
 正勝はそう言いながら、蔦代の死体を静かにそこに倒しておいて寝室へ戻っていった。
 紀久子は猟銃を手にして激しく心臓を弾ませながら、そこにわなわなと、真夜中の冷気に顫えていた。
 正勝は喜平の死体を抱えて、ふたたび戻ってきた。そして、その死体をそこの熊《くま》の皮の上へどんと倒した。同時に、寝室からそこへ運んでくるまで寝巻の端で押さえられていた喜平の胸の傷口からは、ふたたびどくどくと血が湧《わ》いて流れた。
「蔦の傷口からは血はもう出ねえから、こうしておかねえと?」
 正勝はそう言って、そこの熊の皮の上に多量の血が流れ落ちるのを待った。紀久子も黙って心臓を噛《か》まれながら、じっとそれを見詰めていた。
「紀久ちゃん! 場合によっちゃ、あん時、蔦がおれたちと一緒に帰ったかどうかってことが問題になるかもしれねえが、そん時、どうしようかな? 途中までは一緒に来て、途中から逃げたのでそのままにしておいたことにするかな?」
 しかし、紀久子はそれにはなにも答えなかった。彼女はただ目だけを光らせて、呆然《ぼうぜん》として正勝の顔を見詰めていた。
「停車場から、おれたちが蔦を一緒に連れて帰ったのを敬二郎くんが知っているのだから、とにかくどこまでか一緒に帰ったことにしておかないと具合が悪いな。牧場の近くまで馬車で一緒に来て、牧場の門のところで降ろしたらそのまままたどこかへ姿を隠してしまったことにするか?」
「…………」
「蔦があなたのお父さんに恨みを持っていたってことは、蔦のおれへの手紙を見ても分かる。だから……」
「…………」
「おれたちが無理に連れ戻って、門のところで降ろしてしまってからおれはいっさいなにも知らなかったことにしておこう。紀久ちゃんは紀久ちゃんで、その場の都合でなんとでも申し立てればいいさ。とにかく、おれは門のところまで一緒に来てそこで降ろしたから、あとはいっさい知らねえことにする。蔦の手紙も証拠の一つとして見せる必要はあるだろうが、あとで読んだことにするから。それでいいね」
「正勝《まっか》ちゃんがいいと思うんなら……」
「そんな手筈《てはず》にしておこうじゃないか」
 正勝はそして、喜平の死骸にしゃがみ込んだ。
「これくらいでもういいだろう」
 呟《つぶや》きながら、正勝はふたたび喜平の胸の傷口をその寝巻の端で押さえ、寝室へと入っていった。
「これで段取りは終わったわけだ」
 正勝はそう言いながら戻ってきて、蔦代の死骸を抱き起こした。
「蔦がこの部屋まで、短刀を振り上げながら紀久ちゃんを追いかけてきたわけなんだ。そこで紀久ちゃんは正当防衛として、その鉄砲を取って蔦を撃ち倒したというわけなんだ。おれがこうして押さえているから、紀久ちゃんは蔦の傷口に銃先《つつさき》をつけて撃ってくれ」
 正勝はそう言って蔦代の死骸を直立させ、その手を振り上げさせた。
「紀久ちゃんは、鉄砲を撃てるだろう?」
「撃てるわ」
「それじゃ、銃口を傷口へつけて引金を引いてくれ。そして、紀久ちゃんが鉄砲を撃ったら、おれはすぐこの部屋を逃げ出していくから、だれかが鉄砲の音を聞きつけてこの部屋さ入ってくるまで、紀久ちゃんは大変なことをしたというような顔をしてこの部屋から動かねえでいればいいんだ。おれは真っ先に入ってこないで、なにかこう、都合のいいように拵《こしら》えるから」
 正勝は蔦代の死骸の横に立って、その銃口を傷口のところへ持っていった。
「それじゃ!」
「いい?」
「いいよ」
 瞬間! 銃声は轟然《ごうぜん》と窓ガラスを震わして鳴り響いた。
 正勝は手早く蔦代の死骸を熊の皮の上の血溜りの上へ、ちょうどその傷口のところがつくように倒しておいて、戸外へと駆け出していった。

       2

 銃声が轟然と真夜中の薄闇《うすやみ》を揺り動かした。どこからか急に犬が吠《ほ》えだして、そしてその一匹の犬が鳴きやむと、またどこからか別の犬が吠えだした。
「熊だあ!」
 だれかが暗がりの中で高く叫んだ。
「熊だあ! 熊だあ!」
 どこからともなく声が続いた。暗がりの中に人影が動いた。犬が吠えつづけた。
「熊だあ! 馬に気をつけろ! 放牧の馬を気をつけろ!……」
「どっちへ行った!」
「その辺にいるらしい!」
 足音が乱れた。
「弾丸《たま》は当たっているのか?」
 炬火《たいまつ》が暗闇の中に模様を描き出した。
「どっちへ行ったんだあ?」
 石油缶が激しく鳴りだした。人々が叫び合った。板木を叩《たた》き鳴らす音が続いた。
「おーい! どっちへ行ったのか分かんねえのか?」
「いったい、弾丸を食らっているのか?」
「それより、熊を見たのはだれなんだ」
 足音が暗がりの中をぞそっと寄った。
「鉄砲が鳴ったじゃねえか?」
 だれかが言った。
「鉄砲が鳴ったって熊とは決まるめえ」
「熊でも出たんじゃないと、だれもこの夜中に鉄砲など撃つ者はあんめえが……」
 彼らは暗がりの中に動きながら、周囲を見回した。
「いったい、鉄砲はいま、だれのとこにあるんだ?」
 暗がりの中には炬火が揺らめいた。
「おーい! 鉄砲を撃ったのはだれだあ?」
 犬が遠くで吠え立てている。
「鉄砲を撃ったのはどこだあ?」
「おい! 旦那《だんな》の部屋に灯《あかり》が見えるで……」
「あっ!」
「旦那かな? そんじゃ?」
 正勝が言った。
「旦那だべ!」
 炬火が夜の闇を引き裂いて走っていった。

       3

 コンクリートの露台に上がると、そこから部屋へのドアは開いたままになっていた。
「おい! ドアが開いてるぞ」
 だれかが戸口に立って叫んだ。同時に、牧夫たちはその戸口に殺到した。
「てて、て、大変《てえへん》で……」
 部屋の中から婆《ばあ》やが叫んだ。
「あっ! お嬢さまが!」
 だれかがそう叫ぶと、牧夫たちは土足のままで部屋の中に雪崩《なだ》れ込んだ。
「どうしたんだね?」
 牧夫たちはまず、鉄砲を持ってそこに呆然と立っている紀久子をその目に捉《とら》えたのだった。
「お嬢さまが、て、て、お嬢さまが、て、て……」
 婆やは顫え戦きながら吃《ども》った。そして、吃りながら婆やは、熊の皮の上に倒れている蔦代の死骸を指さした。
「あっ! 蔦代さんが……」
 牧夫たちは驚きの声で叫びながら、蔦代の死骸の上にしゃがみ込んだ。
「触っちゃいけねえ、触っちゃいけねえ。検査してもらうまで動かしちゃいけねえ」
 正勝はそこへ寄っていきながら叫んだ。
「あっ! 足跡があるど。血の足跡が……」
 牧夫の一人がそう叫ぶように言うと、牧夫たちはその足跡を辿《たど》って隣室へと雪崩れていった。正勝もそれに続いた。
「あっ!」
 彼らはそう叫んで、戸口のところに立ち止まったが、すぐに喜平の寝室へと殺到していった。
「蔦の奴《やつ》め、とうとうやりやがったな」
 正勝は唸《うな》るようにして言った。
「旦那! 旦那!」
 牧夫の一人は、喜平の死骸を抱き起こしながら叫んだ。しかし、喜平はもちろんなにも答えはしなかった。
「蔦の書置きを見て、連れ戻してきたのを後悔しているんだが、とうとうやりやがったな」
 正勝は繰り返して言った。
「蔦代さんがやったのかな?」
「蔦の奴だ。蔦の奴は、お嬢さまに手向かったに違《ちげ》えねえ。そんで、お嬢さまに鉄砲で撃ち倒されたのに違えねえ」
「蔦代さんが、また、どうして……」
「何かひどく恨んでいたらしいから。しかしまあ、こんで、仕様ねえ。夜が明けて警察から来るまで、こうしておくべ」
 正勝はそう言って、隣室へと歩きだした。牧夫たちはそれに続いた。
「お嬢さま! どう、どうなすったんです?」
 正勝は紀久子の傍へ寄りながら、目を瞠《みは》って訊《き》いた。
「蔦が……蔦が……」
 紀久子は歯の根が合わないまでに、顫えていた。
「旦那を殺したのは蔦だってこと、はっきりと分かるけれども……」
 正勝はそう言いながら紀久子の手から猟銃を取って、そこの壁に立てかけた。
「蔦が、蔦が、わたしも……」
 紀久子はようやくそれだけを言った。
「蔦があなたにも手向かったんですね」
 紀久子は微かに頷《うなず》くようにした。
「しかし、こうしていたって仕様のねえことだし、あなたが何より寒くって仕様がねえだろうから、あっちへ行って夜の明けるのを待つより仕方がねえでしょう」
 正勝はそう言って紀久子の背中に手をかけ、廊下のほうへ出た。牧夫たちは土足のままで、ぞろぞろとその後に続いた。

       4

 牧夫たちのための食堂になっているコンクリートの土間の、片隅の壁際に石と粘土とで竈《かまど》のように畳み上げられてあるストーブには、薪《まき》が幾本も幾本も投げ込まれた。そして、牧夫たちはその焚《た》き口の前に車座になって腰を据えていた。紀久子はその中央の火に近いところへ、席を空けられた。
「婆や! 婆や!」
 正勝は冷えびえしい沈黙を破った。
「婆や! お嬢さまに着物を持ってきてあげろよ」
 正勝は周囲を目探りながら叫んだが、婆やの姿はどこにも見えなかった。
「婆やは、どこかに腰を抜かしているのかもしんねえぞ」
 だれかが言った。それにつれて、初めてようやく微かな笑いが崩れた。
「仕様のねえ婆やだなあ。それじゃ、おれが行って持ってくるかな」
 正勝は身動《みじろ》ぎながら言った。
「いいわ」
 紀久子は微かに言って、止めた。
「寒くて仕様がねえでしょう?」
「我慢しているわ」
「我慢をしなくたって……」
 正勝がそう言って立ち上がろうとしたとき、廊下のほうから腰を引くようにして婆やが出てきた。
「あっ! 婆やが来たか? 婆や! お嬢さまの着物を持ってこう」
「えっ」
「何を婆やは魂消《たまげ》てるんだい? お嬢さまの着物を持ってきてあげろ。外套《がいとう》でもなんでもいい」
 正勝が叫ぶように言うと、婆やはまた腰を引くようにして奥へ入っていった。ふたたび重苦しい沈黙が割り込んできた。ストーブの中に薪がぴんぴんと跳ねているだけだった。
 正勝は、その重苦しい沈黙の空気の中に堪《こら》えていることができない気がした。正勝は沈黙を破るために言った。
「お嬢さま! なにも心配することなんかありませんよ」
 正勝はストーブにぐっと手を翳《かざ》しながら言うのだった。
「蔦はおれの妹だげっとも、それとこれとは別問題だし、あなたの場合は立派に正当防衛というもんだから」
 しかし、紀久子は黙りつづけていた。
 そこへ、婆やが紀久子の外套を持って戻ってきた。
「お嬢さまの着物、どこにあるんだか、一人で奥へ行くのもいやだし……」
 婆やがあたふたと土間へ下りてきながら言った。
「外套のほうがいい」
 正勝が大声に言った。
「肩のところへ血がついているようだから、警察が来るまでやはりこの寝巻を着ていたほうがいいだろう」
「それはそうだなあ」
 牧夫の一人が、紀久子の肩のところへ目をやりながら言った。婆やは紀久子の後ろから外套を覆いかけて、そのまま牧夫たちの後ろに顫えながら立ち尽くした。
「婆やも前さ出て、当たったらいいじゃねえか?」
 正勝は何事かを言っていなければ、耐えられない気持ちだった。
「お嬢さま! 本当になにも心配することなんかねえよ。あなたのは正当防衛なんだから」
「お嬢さまからすれば、親御の仇《かたき》でもあるし……」
 牧夫の一人は言った。
「親の仇なんてこたあいまの社会では通用しねえが、とにかく正当防衛だけは立派に成り立つのだから……」
「夜明けももう間近えべから、駐在所まで行ってくっかな?」
「明るくなってからでいい」
 正勝は鋭く遮った。
「こういう事件というものは時間が経《た》てば経つほど、当事者の利益なんだ。お嬢さまの気も落ち着かねえうちに警察から来られたんじゃ、とんだ馬鹿《ばか》も見ねえとも限らねえからなあ。お嬢さまがすっかり心を落ち着けたところで初めて警察から来てもらって、そん時の具合を間違いなく申し立てても遅くねえ」
「それはそうだなあ」
「お嬢さま! なにも心
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