動悸を打つ音、とたんに入口のドアが静かに開いて、影が現れた。
紀久子は無我夢中に、ぱっと薄暗い光の中に起き上がった。彼女の心臓は破れるほど激しく動悸を打ちだした。彼女は叫ぼうとして声が出なかった。叫ぼうとする身構えをもって、彼女はただわなわなと全身を顫わしていた。
黒い姿は静かに部屋の中へ進んできた。静かに――抜き足差し足で――煙か何かのように――ベッドのほうへ近づいた。紀久子は叫ぼうとする身構えで目を瞠り、唇を極度に顫わせながらじっとその黒い姿を見詰めていた。
黒い姿はすると、右手を上げて、それを紀久子のほうへ差し伸ばしながら横に振った。黙っていろということの合図らしかった。しかし、紀久子は叫ぼうとするその身構えから、姿勢をさえ崩すことができなかった。彼女の全身の神経は恐怖にわなわなと戦慄《せんりつ》しながらも、針金のように固くなってしまっているのだった。
黒い姿は二つのベッドの中間に立ち止まって紀久子のほうへ向き直り、帽子を取った。そして、その顔を薄い電灯の光線に翳《かざ》した。正勝だった。
紀久子は正勝の顔を見ると、打ちのめされたようにしてベッドの上にくずおれた。そして、彼女はもう叫ぶことも動くこともできなかった。ただ、心臓だけが電気仕掛けの機械のように、石像のように固くなった彼女の身体を微かに躍動させていた。
正勝は向き直って喜平のベッドに近寄り、夜具を引き捲《めく》って銀光のものを振り落とした。
「うっ! う……」
鈍重な唸《うな》り声を上げながら喜平は上半身を起こそうとしたが、正勝の掌の中の刃物はふたたび喜平の心臓を目がけて突き刺さった。
「うっ!」
喜平は鈍く短く唸って、ベッドの上に倒れた。
「あ!」
紀久子は初めて声を上げた。
正勝はすると、手を振りながら紀久子のベッドへ寄ってきた。紀久子は叫ぼうとして、また叫ぶことができなくなっていた。正勝は真っ青な顔で紀久子を覗き込んだ。その手には黒く血がついているだけで、刃物は持っていなかった。
「紀久ちゃん! 驚くこたあねえ!」
正勝は顫える声で言った。顫えるのを固く歯で噛み締めているような声で、彼は鋭く言ったのだ。
「紀久ちゃんの秘密を、秘密を防ぐためなんだ」
正勝はそう言った。紀久子は唇を動かして何か言おうとしたが、やはり声がどうしても出なかった。
「紀久ちゃんが、こ、こ、この証人になればいいんだ」
「――しょう……」
紀久子は言葉にはならない声を口にしたが、そのあとがどうしても続かなかった。
「驚くことはねえ!」
「あっ! あっ!……」
「明日の朝、大騒ぎになるに相違ねえから、そ、そ、その時にゃあ紀久ちゃんがいまのことを、はっきりと見た! って言えば、そ、そ、そんでいいんだ」
正勝はさすがに言葉が整わなかった。
「紀久ちゃん! おれの、おれの言ってるの分かるか?」
「え!」
紀久子はじっと正勝の顔を見詰めながら言った。
「こ、こ、これは、しかし、おれがやったことにしてはいけねえんだ。紀久ちゃん! 分かる?」
「え!」
「蔦代が、蔦代が、蔦代が殺したことにしねえといけねえのだ」
「蔦代が?……」
紀久子はそう言ったが、彼女は正勝の言うことが分かっているのではなかった。彼女には何もかもが、全然分からなかった。正勝の顔が自分の前に見えていることさえ、紀久子ははっきりと意識することができないような状態になった。正勝が言っていることの、いかなる意味であるかなど、紀久子は全然消化する力を失っていた。
「紀久ちゃん! 分かるか?」
正勝はしかし、念を押しながら続けた。彼もまた、沸騰するような心臓の動悸のために苛立《いらだ》っていて、判断力を失っているのだった。
「蔦代が殺したことにするんだ。紀久ちゃんは、蔦代が入ってきて父さんを刺したのだ! って言えばそんでいいんだ。そ、そ、そして、それから、蔦代がわたしのほうへ寄ってきたから、わたしは蔦代を鉄砲で撃ったのだ! って言えばそんでいいんだ。紀久ちゃんはそれで立派に正当防衛になるんだから」
「…………」
紀久子はやはり黙りつづけていた。黙って、彼女はじっと正勝の顔を見詰めていた。正勝の言っている言葉の意味を、彼女はどうしても消化することができないのだった。
「なんなら蔦代が、紀久ちゃんを追い回したことにしてもいいんだ。紀久ちゃんは逃げ回って、鉄砲のあるところへ行ったので、その鉄砲で思わず蔦代を撃ったことにすればいいんだ。鉄砲には……」
「鉄砲?」
紀久子は初めて、言葉の形態を備えた言葉を口にした。
「鉄砲でさ。蔦代の身体にある傷は、蔦代の死んだ傷は、鉄砲の傷なんだもの」
「鉄砲?」
紀久子は呆然《ぼうぜん》とその言葉を繰り返した。
「鉄砲でさ。それに、鉄砲にはいつでも弾丸が込もっていて、隣の部屋にかかっていることになっているんだから」
「正勝ちゃん!」
紀久子は低声ながら、叫ぶようにして言った。
「紀久ちゃん! 大きな声をしちゃいけねえ!」
正勝は押しつけるように鋭く言った。
「わたしを助けて……」
「おれの言っているのが分からないのか? おれは自分のためにばかりやっているのじゃねえんだ。いいか、蔦代が殺したことにして、蔦代がそのうえに紀久ちゃんまで殺そうとして追い回したから、紀久ちゃんは鉄砲のある部屋へ逃げていって、そこに弾丸を込めたままかけてある鉄砲を取って思わず撃ってしまったことにすれば、それでいいんだ。それで紀久ちゃんは立派な正当防衛になって、罪にはならねえから」
「…………」
「紀久ちゃん! 分かったかい?」
「え!」
紀久子は微かに頷《うなず》いた。
「それじゃ、こ、こ、これからおれがその準備をするから、支度が出来上がるまで、紀久ちゃんは動いちゃいけねえ。支度ができてから、その寝巻のままで起きて、隣の部屋へ行って鉄砲を撃つんだよ。そして、そこに、みんなが、鉄砲の音を聞いて集まってくるまで、じっとして立ってれば、それで何もかも済むのだ。いいか? それで分かったな?」
「え!」
紀久子は軽く頷いた。
「それじゃ、おれが支度するまで、寝ていてくれ」
正勝がそして静かに、抜き足をして部屋を出ていった。
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第四章
1
暗黒の中に、不気味な沈黙がしばらく続いた。死のような夜更けの酷寒に締めつけられて凍《し》み割れる木材の鳴き声が、冷気を伴ってときどきぴゅんぴゅんと微《かす》かに聞こえてくるだけだった。そして、紀久子は泥沼の底のような不気味な沈黙の中に、歯の根も合わないまでに顫《ふる》え戦《おのの》いていた。
やがて、正勝は蔦代の死骸《しがい》を抱えて入ってきた。そして、正勝は薄い電灯の下に二つの影を引きながら、蔦代の死骸を喜平の死骸の傍《そば》へ持っていった。
「紀久ちゃん!」
正勝は低声《こごえ》にそう呼びながら、蔦代の死骸を喜平の死骸の横に並べた。
「紀久ちゃん! こっちの段取りが終わるまで、紀久ちゃんは寝床の中へ入っていてくれ」
しかし、紀久子はほとんど意識を失っているように、ただわなわなと身を顫わしているばかりだった。
「紀久ちゃん! 寝床の中へ入っていてくれ。でないと、段取りができないから」
正勝は紀久子のベッドへ近寄りながら、繰り返した。
「紀久ちゃんが寝床の中へ入ってるところへ、蔦が短刀で斬《き》りつけてくるようにするんだから、寝床の中へ入っていてくれったら」
そして、正勝はそのベッドの夜具を捲《めく》り、紀久子の胸を軽く押した。紀久子は胸を押されて、初めて意識を取り戻したようにしてベッドの中に潜り込んだ。
「紀久ちゃん! そして、おれのとおりに動いてくれ。でないと、蔦が斬りつけていくときの足の運びやなんかの具合が分かんねえから」
正勝はそう言って、ふたたび二つの死骸の傍へ戻っていった。そして、正勝は死骸にしゃがみ込んで、そこに落ちていた短刀を取り、まずそれを蔦代の掌《て》を押し開いてその中に握らせた。
死んでいる掌は筋が攣《つ》っていて、それを押し開いて握らせるのが容易でない代わり、一度握ってしまうと機械のようにその掌に固く固く支えていた。そこで、正勝は蔦代の死体を抱き起こした。抱き起こしておいて蔦代の手の甲をその上から握り、自分の力でその短刀を喜平の胸の傷口へ突き刺した。喜平の胸の血が蔦代の青白い手に、赤黒くべっとりとついた。そして、正勝はその手を胸から抜き取らせると、今度は蔦代の死体を右手に支えながら左の手で喜平の死体を半起こしにして、二つの死体を組みつかせるようにした。蔦代の死体の胸には喜平の胸の傷口の血糊《ちのり》がべっとりとつき、蔦代の手の短刀が喜平の咽喉部《いんこうぶ》に触れた。そこで正勝は、喜平の死体をベッドの上にどんと倒し、ふたたび蔦代の手の甲を握って喜平の咽喉部に短刀を突き刺した。今度は傷口へそれを突っ込むようなわけにはいかなかった。短刀はわずかに突っ立ったばかりで、柄《つか》が蔦代の掌の中から突き出た。
「紀久ちゃん! 起きてくれ。ベッドの上へ、半分ばかり身体《からだ》を起こしてくれ。いまはじめて気がついたように、身体を半分起こしてくれ」
正勝はそう言いながら、ベッドの横の血溜《ちだま》りに蔦代の足を立たして、その足を血に染めた。
「紀久ちゃん! こっちから斬りつけていくような恰好《かっこう》で紀久ちゃんのほうへ寄っていくから、おれが動けって言うまでそのままにしていてくれ」
そして、正勝は蔦代の死体をその後ろから抱き支えて、足音を忍ばせるように小刻みに足を運ばせながら右手の短刀を振りかざして、紀久子のベッドへ接近していった。
紀久子はベッドの上に上半身を起こして、顫え戦きながら眉《まゆ》を寄せていたが、正勝が蔦代の右手を振り上げて近寄るにつれ、静かに静かにベッドから滑り下りた。
「紀久ちゃん! そのままでいてくれ。蔦が短刀で斬りつけたようにするから、そこへ寄っていくまでは動かねえでいてくれ」
そして、正勝は接近していった。紀久子は眉を寄せながらも、そのままじっとしていた。紀久子のベッドへもはや三尺(約一メートル)ばかりのところで、正勝は蔦代の手の中の短刀をひと振り強く紀久子に向けて振りかざした。
「あっ!」
紀久子は低声で叫んでベッドの上からぱっと床の上に飛び下りたが、その瞬間に、短刀から飛んだ血糊は紀久子の寝巻の肩へ、牡丹《ぼたん》の花の模様のように広がった。そして、蔦代の手の余勢はベッドの夜具の上にばたりと落ちた。同時に、血糊は夜具の上にも赤黒い模様を描いた。
「紀久ちゃん! 今度は逃げてくれ!」
正勝は蔦代の手を取って振り上げさせながら、紀久子を促した。
「この部屋をひと回り逃げ回って、それから次の部屋へ逃げ込んでくれ」
正勝はそして、蔦代の死骸をその後ろから抱き、蔦代の足が床の上に印す血の足跡を踏まないように注意深く大股《おおまた》に脚を開いて、不恰好な足構えで紀久子を追い回した。
「紀久ちゃん! それくらいでもう次の部屋へ行ってくれ。そして、ついでにそこの血を少し踏んでいってくれ」
正勝はそう言って、なおも不恰好な足構えで蔦代の死骸を抱えながら、紀久子を追い回した。紀久子は言われるままに、血糊を踏みつけて鮮やかな足跡を印しながら、次の部屋の戸口のほうへ逃げていった。
「そして、次の部屋へ行ったら、鉄砲のかかっている下へ逃げていってくれ」
次の部屋の戸口にまで追い詰めておいて、正勝は立ち止まりながら言った。
「そして、鉄砲の下へ行ったらいちばん下の鉄砲を取って、それで向き直ってくれ」
正勝は、すぐにも倒れようとする蔦代の死体を必死になって抱き支えながら言った。紀久子はドアを押し開いて、次の部屋へ走り込んでいった。
「鉄砲だ! 鉄砲を取って!」
正勝は紀久子に続いて入りながら、低声に言った。
「いちばん下の?」
紀久子は初めて、そう顫える声で言いながら、猟銃を取った。
「それを蔦の胸の傷口に当てて……待てよ。その前に、大事なことを忘れている。待っ
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