だんす》の引出しの底からそこにありったけの紙幣を掴み出して、それを洋服のポケットに押し込みながら部屋を出ていった。
 紀久子は裏庭に出て、夢遊病者のようにふらふらと周囲に気を配りながら厩舎《うまや》のほうまで歩いていったが、しかし正勝はもうどこにも見えなかった。紀久子はまた激しく胸が躍った。
 厩舎は南を向いて三棟が三列になっているのであったが、その一番前の東端の一郭は牧夫たちのための合宿部屋になっていた。正勝の姿を見失った紀久子は他人目《ひとめ》を盗むようにして、その合宿部屋の前へ歩み寄っていった。合宿部屋にはしかし、正勝の入っているらしい気配はなく、重い板戸が固く閉まっていた。
「正勝《まっか》ちゃん!」
 紀久子はそれでも、周囲に気を配るようにしながらも低声《こごえ》にそう呼んだ。しかし、その部屋の中からは物音の気配さえしてこなかった。紀久子はその重い板戸を見詰めて、じっとそこに立ち尽くしているより仕方がなかった。
「正勝ちゃん! 正勝ちゃん!」
 紀久子はその重い板戸を軽く叩《たた》きながら、繰り返した。しかし、彼女はやはり何の気配をも受け取ることはできなかった。紀久子はもうどうしていいか分からなかった。彼女は恐ろしい秘密のしだいに広がるのをじっとその目の前に見詰めながら、言葉を封じられ、手足の自由を奪われているような自分をそこにまざまざと感じないではいられなかった。彼女はまったく、じっとしてはいられないような気持ちだった。遣《や》る瀬《せ》のない気持ちで、彼女は自分というものを片っ端から引き毟《むし》ってしまいたいほどだった。彼女の心臓は酷《ひど》く痛んできていた。
「正勝ちゃん! 正勝ちゃん!」
 紀久子は遣る瀬なくなって、自分の心臓を引き毟るような気持ちの中で、さらにそう繰り返した。部屋の中からは、依然として何の反響もなかった。紀久子はもうそこにじっと立ち尽くして、その気持ちに耐えていることはできなかった。彼女は全身を押し揉《も》むような悩ましさを抱いて、静かにそこを歩き出した。そして、彼女は心臓がじりじりと焼け爛《ただ》れているように感じながら、厩舎の横をふたたび裏庭のほうへ引き返していった。
「あらっ!」
 紀久子は驚きの声を上げて、第三|厩舎《きゅうしゃ》の前に足を止めた。
「正勝ちゃん! ここにいたの?」
 紀久子は喜びのあまり、正勝の前までひらひらと飛ぶような恰好《かっこう》をして近寄った。
「何してんの?」
 紀久子は正勝の顔を覗《のぞ》き込むようにして言った。
 しかし、正勝は黙りつづけていた。そして、彼は黙りつづけながら陽射《ひざ》しのほうに背を向けて、第三厩舎の中央の柱にかけてある長い綱を、放牧馬捕獲用の長い綱を、自分の身体にぐるぐると巻きつけていた。
「正勝ちゃん! 何してんの?」
 紀久子は怪訝《けげん》そうに、しかし馴《な》れなれしく繰り返して訊いた。正勝は依然として答えなかった。彼は黙りつづけながら、やはりその長い綱を自分の身体へぐるぐると巻きつけるのだった。
「正勝ちゃん! あなたはどこかへ行くつもりなの?」
 紀久子は恐るおそる、そう、しかし甘えるようにして、正勝の顔を覗き込むようにした。
「心配しないでもいい」
 正勝は初めてそれだけをぼそりと言った。そして、またその長い綱をほぐしては巻き、ほぐしては自分の身体に巻きつけた。しかし、紀久子は正勝の言葉を聞いてほっとした。
「何をするの? その綱で?」
「紀久ちゃんを酷い目に遭わせるようなことはしないから」
「どこかへ行くの?」
「そりゃあ行くさ」
「どこかへ行って、でも、困るといけないわ」
「困ったって……」
「お金を幾らか持っているの?」
「お金? そんなものねえよ」
 正勝は初めて顔を上げて言った。彼の顔は凄《すご》いまでに青白かった。そして、その目は星のように顫えていた。
「紀久ちゃん! 紀久ちゃんは安心していていい。おれが何もかも引き受けるから」
「どこかへ行くんなら、本当に困るといけないわ」
 紀久子はそう言いながら、洋服のポケットに捩《ね》じ込んでおいた幾枚かの紙幣を掴み出して、それを正勝の洋服のポケットに押し込んだ。
「金か? あははは……」
 正勝は静かに、しかし不気味に微笑《ほほえ》んだ。
「おれ、金なんかいらない」
 彼はそう言ったが、しかし、それを掴み出して返そうとはしなかった。そして彼はただ、その長い綱を自分の身体に巻きつけるのだった。
「どこかへ行くんなら……」
 紀久子は正勝を怪訝そうに見詰めながら言った。
「紀久ちゃん! おれ、紀久ちゃんを本当に想《おも》っているんだから、紀久ちゃんを困らせるようなことは決して言わねえから、安心していろ。おれは敬二郎よりももっと紀久ちゃんを想っているのだから。子供の時分に、一緒に遊んでいたときのことを思うと、おれ紀久ちゃんを酷い目に遭わせるようなことは決して言えねえ。安心していろ」
 正勝はそう言って、静かに微笑んだ。紀久子は身体の箍《たが》が全部緩んだような気がしながら、目が熱くなってきてなにも言うことができなかった。正勝は微笑みながら繰り返した。
「本当になにも心配しなくていい」
「どこかへ行って困ったら、いつでもわたしがお金を送ってあげるわ」
「金なんかいらないよ」
 正勝はそう言って、その長い綱を身体に巻きつけたまま、静かにそこを歩き出した。
「正勝ちゃん! どこへ行くの?」
 紀久子は怪訝そうに訊いた。
「心配しなくてもいい」
 正勝は振り向きもしないで歩いていった。
「そんなものを巻きつけて。でも、どこへ行くつもりなの?」
 正勝はもう返事もしなかった。彼はズボンのポケットに両手を突っ込んで、厩舎の横から放牧場の雑草の中へと、静かに歩み消えていった。

       2

 闊葉樹《かつようじゅ》の原生林は紅《あか》や黄の葉に陽が射して、炎のように輝いていた。
 正勝は陽にきらきらと輝きながら散る紅や黄の落ち葉を浴びながら、綱を身体に巻きつけたまま熊笹藪《くまざさやぶ》の中を歩いた。彼のその足音に驚いて、この地方特有の山鳥が枝から枝へと、銀光の羽搏《はばた》きを打ちながら群れをなして飛んだ。白い山兎《やまうさぎ》が窪地《くぼち》へ向けて毬《まり》のように転がっていったりした。
 しばらくしてから、正勝は道のほうへ出た。しかし、昨日の跡はことごとく落ち葉に埋め尽くされて、ただぎらぎらと火の海のように陽の光に燃え輝いているだけで、猫の額ほどの地面も残ってはいなかった。
 しかし、そこには一つの目標があった。横筋の地肌の暗灰色の幹に、真っ赤な蔦《つた》が一面に絡みついているのであった。そして、はるかの谷底には暗緑色の椴松《とどまつ》林帯が広がり、その梢《こずえ》の枯枝が白骨のように雨ざれているのだった。
 正勝は崖際《がけぎわ》の一本の幹に自分の身体に巻きつけてある綱の端を結びつけ、紅や黄の落ち葉に埋もれながら谷底へと下りていった。綱に掴まり、岩角や灌木《かんぼく》に足をかけて、周囲に求むるものを探りながら谷底へ谷底へと下りていった。
 しかし、そこの地形は崖の上の道からの想像とは、ほとんど違っているのだった。道から見たのでは、その崖は道端からすぐ谷底までほとんど一直線的にぐっと岩壁になっているように見えるのだが、崖際から六、七間も下へおりると、そこにはLの字形の岩が突き出ていて雑草が茂り、灌木が伸び、落ち葉に埋もれているのだった。正勝は思いがけぬ足溜《あしだま》りを得た。思いがけぬ世界を発見した。そして同時に、容易にそこで蔦代の死体を発見したのだった。彼はかえって呆気《あっけ》に取られた。
 正勝はその死体を前にしてしばらく立ち尽くした。それから彼は、落ち葉に埋められかけているその死体に手をかけて、前の姿勢から半分ほども起き返らしてみた。死体には別に、岩角での擦過傷というようなものはなかった。胸から脇腹《わきばら》にかけて、出血のために着物がべとべとになっているだけであった。彼はさらに、腕や脚を精細に調べてみた。やはり、腕や脚にも擦過傷はなかった。正勝がその路上から投げ込んだままどこの岩角にも突き当たらずに、直接そのLの字形の岩の上の雑草の上に落ちたのに相違なかった。
 それから正勝は、その死体の胴へ自分の身体に巻きつけてある綱の一端を結びつけておいて、下りてきたときの綱に掴まって岸壁を登っていった。そして、崖の上に登り着くと、道の前後を注意深く見た。しかし、普段からあまり人通りのないその道には、夕陽にぎらぎらと輝きながら、紅や黄の葉がばらばらと落ち葉の海の上に散っているだけであった。
 正勝は綱を手繰った。彼の掌《てのひら》の皮が剥《む》けてしまうほどの重さをもって渋りながら、蔦代の死体は崖の上に揚がってきた。正勝はすると、その死体を素早く引っ担いで闊葉樹の原生林の奥深く駆け込んでいった。
 そして、彼はそこの熊笹藪の中に蔦代の死体を隠し、夜の迫るのをじっと待った。

       3

 紀久子は容易に眠れなかった。
 彼女の耳の底には、正勝の、安心していろ! という言葉が耳鳴りのように付き纏《まと》っていた。そして目を閉じると、身体にぐるぐると綱を巻きつけている正勝の姿がその目の前にはっきりと見えるのだった。彼女は目が冴《さ》えて、どうしても眠ることができなかった。彼女の神経は銀針のように鋭敏になって、絹糸のように戦《おのの》いているのだった。
 いくつかの部屋を隔てて、遠くのほうから柱時計の一時を打つ音がした。
 紀久子は無意識のうちに、ベッドの上に半身を起こした。彼女の心臓は恐ろしい激しさをもって動悸《どうき》を打っていた。そして、遠くのほうで何かの足音が遠ざかっていくように、時計の音は微かに――しだいに微かに――微かに微かに、絹糸のように細くなりながら――消えていった。しかし、紀久子の動悸は容易に止まらなかった。いつまでもいつまでも、だくっだくっだくっ……どきどきどき……と、心臓が破れそうになりながら続いた。
 焼け爛れるような痛みと悩みとをその心臓に感じながら、紀久子はじっと部屋の中を見回して、それから静かに夜具を引き被《かぶ》った。しかし、彼女はやはり眠ることができなかった。なにかしら恐ろしい幻想が彼女の目の前に立って、彼女の心臓を圧迫しているのだった。父親のベッドにさえ、紀久子はそこに自分の動静を窺《うかが》っている者が潜んでいるような気がして、神経を掻《か》き立てられるのだった。
 どこかで何かぴゅん……と弾《はじ》ける音がした。
 紀久子はまたぱっとベッドの上に胸を浮かした。しかし、自分の横には二間ほど離れて父親のベッドがあり、その上に父親が眠っているだけであった。別に何の変わりもなかった。紀久子はしかし、部屋の中に瞠った目をそのまま閉じてしまうことはできなかった。そして、ぴゅんという音の余韻が耳底に続き、その中で正勝の、安心していろ! という声が聞こえるのだ。いつまでもいつまでも聞こえているのだった。
 しかし、なんでもなかったことが分かると、紀久子はほっと溜息《ためいき》を一つして静かに夜具を引き被った。彼女の心臓は父親の眠りを妨げはしまいかと思うほど、激しく動悸を打っていた。彼女はぐっと胸を押さえつけて、じっと小さくなっていた。
 するとまた、戸口のほうで金属の触れ合うような音が始まった。
 紀久子は全身の神経を緊張させた。しかし、音はすぐ消えてふたたび、冴えざえしい静寂のうちに返っていった。紀久子は恐怖性錯覚を起こしやすくなっている自分の神経のことを思いながら、その半面では、だれかわたしを連れにきたのではないかしら? と思いながら、無理にも神経を鎮めようとした。
 金属の触れ合うようながつがつという音がまた続いた。夜寒の冴えざえしい空気の中に――隅々までも針の先で突くようにして――しばらく続いた。
 紀久子はまた目を開いた。薄暗い電灯、朦朧《もうろう》としている何かの影、父親のベッド、何物をも圧している自分の心臓の
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