《ゆうべ》からなんとなくお顔の色が悪くて、ご心配事でもあるようなご様子でございましたよ」
「なんでもないのだわ」
「なんでもなければようございますが、何かご心配事でもございましたら、なんでもわたしに打ち明けてくだされませな。わたしはお嬢さまのことなら、生命《いのち》に懸けてもいたそうと思っているのでございますからね」
「婆や、なんでもないんだからもうあっちへ行っててよ」
 またその時、いままで森閑としていた隣室から父親喜平の激しく怒鳴る声が、雷よりも凄《すさ》まじい勢いをもって紀久子の耳朶《じだ》を襲ってきた。
「言えっ! 言えったら言え! その秘密というのを言ってみろ! 正勝! てめえはなんで黙っているんだ?」
 その激しい態度《ものごし》は、いまにも掴みかかっていきそうに感じられた。
「婆や! お父さまを呼んできてよ。早くお父さまを呼んできてよ。早く! 婆や!」
 紀久子はベッドの上に半身を起こして、恐怖に戦《おのの》きながら狂的に叫んだ。
「お嬢さま! 大丈夫でございますよ。わたしがお傍《そば》についておりますから、お呼びなさらないでもよろしゅうございますよ」
「何を婆やは言っているの? 呼びに行くのがいやなの? いやならいいわ、わたしが自分で行ってくるからいいわ」
 紀久子はいつもの温順さにも似合わず、狂的に叫びながら髪を振り乱してベッドから飛び下りた。
「お嬢さま! ではわたしが……」
「いいわ!」
 彼女は老婆を押し除《の》けるようにして、ドアのほうへ突き進んだ。
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   第三章

       1

 沈黙が続いた。喜平は目を輝かして正勝を睨《にら》みつけ、唇を噛《か》み締め、鞭《むち》の手をぐっと正勝の身近くへ差し伸ばし、その手を微《かす》かにわなわなと顫《ふる》わしていた。そして、正勝は腕を組み、唇を噛み締めてじっと俯《うつむ》いていた。嵐《あらし》を孕《はら》める沈黙だ。いままさに、鉄砲の火蓋《ひぶた》が切って落とされようとしているような沈黙だった。
 正勝はじっと俯いて、嵐のように荒れ渦巻く心のうちに、喜平の胸に向かって投げつくべく、言葉の弾丸《たま》を整えているのだった。過去の噂《うわさ》から、過去の記憶から、彼は喜平の胸に投げつくべき言葉の数々を機関銃の弾嚢帯《だんのうたい》のように繰り出していた。そして、彼は秘《ひそ》かに喜平のその肉の仮面を肉づきのままに引き剥《は》ぐべく、爪《つめ》を研ぎ澄ましているのだった。
 喜平はじっと正勝を見詰めつづけ、正勝がもし何か喚《わめ》きだしたら、その細長いしなやかな鞭をもってすぐにも殴りつけようとしているのだった。火のような昂奮《こうふん》をもって、喜平は第二の爆発の動機を待ち構えているのだった。
 狂暴な嵐の中の瞬間的な静寂のような沈黙だった。偶然に均衡を得た一つの機構が、わずかの間をどうにか崩れずにいるような、瞬間的静止状態であった。なお大きく恐ろしく爆発しようとして……。そして二人の間には沈黙が続いた。

 隣室の沈黙につれ、紀久子はその身体《からだ》を婆《ばあ》やの手に委《まか》すようにした。婆やは紀久子の肩に手をかけて、ベッドの上へ静かに寝かした。そして、紀久子はベッドの上でじっと目を閉じたが、恐怖の嵐がその身内を駆け巡っていた。
(正勝さんはあのことを言ってしまうのだわ。あの秘密を言おうとしているのだわ。あの秘密を……)
 紀久子は心の中に呟《つぶや》いた。彼女は渦巻き吹き捲《まく》る恐怖の嵐のために、胸が裂けてしまいそうだった。そして、彼女はじっと目を閉じていると、隣室で父の喜平と対峙《たいじ》している正勝がその口辺をもぐもぐさせながら、いまにも叫び出そうとしているさまがはっきりと見えるような気がするのだった。そして、その言葉がいまにも自分の身内へ飛び込んできて、自分の心臓を滅茶《めちゃ》めちゃに噛み荒らすような気がするのだった。紀久子の心臓は熱病患者のように燃えながら顫えた。
(正勝さんがあの秘密を明かしたら、わたしはどうなるのだろう?)
 紀久子はそう思うと、恐ろしいことの来ないうちに消えてしまいたいような気がするのだった。
 しかし、もうどうにもならないことだった。父の喜平と正勝との対峙の場所へ飛び出して、正勝の口を塞《ふさ》ぐことのできないのはもちろんだったし、正勝が一度その口にした秘密という言葉に対する父の追及を、いまさら制止することもできなかった。紀久子はただじーっとして、恐ろしい現実が波紋を描いて広がるのを待っているよりほかには仕方がなかった。紀久子のただ一つの希望は、その不気味な沈黙が沈黙のままに終わってしまうことだけであった。

 沈黙が不気味のままに続きだすと、喜平は書卓の上へがたりと鞭を投げ出して荒々しく煙草《たばこ》に火を点《つ》けながら、目を三角にして怒鳴った。
「さあ! 言え!」
 しかし、正勝は顔を上げなかった。
「言え! その秘密ってのを言え!」
 喜平は怒鳴りつづけ、追及しつづけた。
「なんだって黙っていやがるんだ! さあ! 言えったら言え!」
 正勝はやはり顔を上げなかった。
「言えったら言え! 秘密の何のと言いやがって! さあ! 言え!」
 喜平はまた鞭を取り上げて、書卓の上をぴしぴしと打ちつづけながら叫んだ。
「秘密の何のと言やあ、馬鹿野郎《ばかやろう》、驚くとでも思っていやがるのか? てめえらに威《おど》かされてどうなるんだ? 馬鹿野郎め、何が秘密だ?」
 喜平はそこで、書卓を強く打ち据えた。
「それじゃ、秘密なんて、ないというんですか?」
 正勝はぐいと顔を上げて、叫ぶように言った。
「なんだって!」
「人殺しのようなことをしていながら、そんでもなにも秘密がねえなんて……」
「人殺し? この野郎め! 黙っていりゃ勝手なことを吐《ぬ》かしやがって、おれがいつそんな人殺しのようなことをした?」
「おれらのお袋がだれのために死んだか、何のために死んだか、おれらが知らねえとでも思っているのか?」
「そんなことがおれと何の関係があるんだ?」
「関係がねえ? 関係がねえと思ってんなら教えてやらあ」
「馬鹿野郎! それをおれに教えるっていうのか? てめえのお袋は、てめえの親父《おやじ》が死んでから生活に困って、自殺をしたんだぞ。そんでてめえらは、干乾《ひぼ》しになってしまうところだったんだ。その干乾しになってしまうのを、いったいだれが助けてやったと思ってんだ?」
「それじゃいったい、おれらのお袋を自殺させたのはだれなんだ」
「そんなことをおれに訊《き》いたって分かるか?」
「それじゃ教えてやろう。おれらのお袋は、きさま! きさまのために自殺したんだぞ」
「なんと? おれのために自殺をしたって?」
 喜平は驚異の目を瞠《みは》りながら叫んだ。
「黙っていりゃ吐かしやがる?」
 喜平はそして、いまにも掴《つか》みかかろうとするような形相さえ示した。しかし、正勝は喜平の顔に向けてぐっと目を据えたまま、身動《みじろ》ぎもしなかった。喜平は鞭を取って、ぴしりと強く書卓の上を打っただけだった。
「馬鹿野郎め、育てられた恩を忘れやがって!」
「大変な恩だ。こっちから言わせりゃあ、それこそ余計なお世話だったんだ」
「余計なお世話だと? 余計なお世話かはしんねえが、もしあん時にだれも世話する者がなかったら、てめえら母子《おやこ》はどんなになっていたか、それを考えてみろ!」
「ふん! そんなこたあさんざんぱら考えていらあ。おれらの親父は何のために死んだか? だれのために殺されたか? そして、お袋はおれらを育てるためにどうしたか? なぜ自殺したか? だれのために自殺したか? そんなこたあ何もかも知っていらあ。おれらの親父は過ってあの谷底へ落ちたんでも、自殺したんでもねえんだ。突き落とされたんだ。自分の財産のために、自分の財産を肥やすために、おれらの親父を突き落とした奴《やつ》がいるんだ。おれらの親父は開墾地の小作人たちのために、正義の道を踏もうとして地主の奴から谷底へ突き落とされたってこたあ、おればかりじゃなく、だれだって知っていることなんだ」
「地主のために? てめえはそれじゃ、てめえの親父を殺したのがおれだっていうのか?」
 喜平はさすがに顔色を変えながら叫んだ。
「もちろん!」
 正勝は鋭く太く叫び返した。
「そんな馬鹿なことがあるもんか? てめえの親父とおれとは、兄弟のようにしていたんだぞ」
「兄弟のようにして、ほとんど共同事業のようにして牧場と農場とを始めて、それが成功しかけてくると、相手がいたんではそれから上がる利益が自分の勝手にならねえもんだから邪魔になってきて、そのためにってこたあだれだって知っているんだ。利益の分配のことについてだけだったら、場合によっちゃあ秘密に隠しおおせたかもしれねえさ。しかし、おれらの親父は小作人たちには味方していたんだ。小作人たちが内地から移住してきたときに、開墾について小作人たちに約束したことは、生命《いのち》に懸けても枉《ま》げようとなんかしていなかったんだ。開墾地の人たちが自分のものとして開墾したところはあくまでもその人たちのもの、地主の耕地として開墾したところは地主のものって区別をはっきりと立てていたんだ。それを欲の皮を突っ張って、自分の名義で払い下げた土地だっていう口実で、当然開墾地の人たちの土地であるべきところまで小作制度にしようとしたんじゃねえか? それにゃあ、仲へ立って小作人たちの味方になって正義の道を踏んでいこうとするおれらの親父が邪魔になったんだ。邪魔になったから狩りに連れ出して谷底へ突き落として、過って落ちたんだとか自殺したんだとか、なんとかかんとかいうことにしてごまかしてしまったんじゃねえか?」
「正勝! てめえは本当にそう思っているのか?」
 喜平は顔色を変えて、わなわなと身体を顫わせながら叫んだ。
「もちろん!」
 正勝も身体を顫わせながら叫んだ。
「もちろんさ! いまの様子を見ても分かることなんだ? 開墾した土地の半分くらいは自分の土地として貰《もら》えるはずで内地からはるばる移住してきた人たちが、自分の土地ってものを猫の額ほども持たねえで、自分たちが死ぬほど難儀して開墾した土地さ持っていって、高い年貢を払って耕しているじゃねえか?」
「何を馬鹿なことを吐かしているんだ。てめえなんかに分かることか? 馬鹿なっ!」
「そして、おれらの親父が死んでお袋が生活に困りだすと、おれらが子供でなにも分からないと思いやがって、お袋が生活に困っているのに付け込んでお袋を妾《めかけ》に、妾にして、子供まで孕まして……」
「嘘《うそ》をつけ!」
「嘘なもんか! おれらのお袋はそれを恥じて自殺したんだぞ。子供まで孕ましておきながら、ろくに食うものも宛《あてが》わねえで、自殺してからおれらを引き取って何になるんだ。おれらを引き取ったのだって、育てておいて扱《こ》き使ってやるつもりだったのだろう」
「なんだと? 育てられた恩も忘れやがって……」
「何が恩だ? おれらの親父はきさまの財産のために生命をなくし、そしてお袋はきさまの色事のために生命をなくしているのに、何が恩だ? 恩を返せっていうのか? そんな恩ならいつでも返してやらあ」
「この馬鹿野郎め! 黙っていりゃあとんでもねえことばかり吐かしやがって! てめえのような奴は出ていけ! てめえのような奴は置くわけにいかねえから」
 喜平は鞭を取って、書卓の上を殴り散らしながら叫んだ。
「もちろん出ていく!」
「いまのうちに出ていけ!」
「出ていくとも」
 正勝は喜平を睨みながら立ち上がった。
「すぐ出ていけ!」
「出ていくとも! その代わり近々のうちに恩を返しに来るから、忘れねえでいろ、貉親爺《むじなおやじ》め!」
 正勝は喜平を睨みつけながら、捨科白《すてぜりふ》をして部屋を出ていった。

 隣室の激しい爭いにじーっと耳を立てていた紀久子は、正勝が出ていくと急いでベッドを下りた。そして、紀久子は自分の用箪笥《よう
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