んなことを考えながら、放牧場のほうへ出ていった。

       5

 正勝は跛を引きながら歩いている花房の前へ躍り出ようとする浪岡を、花房の後ろに続くようにと右手で制しながら、厩舎への道を曲がった。
「正勝《まっか》ちゃん!」
 その瞬間に、白い天鵞絨の服が草原から出てぱっと陽《ひ》に輝いた。突然に激しい白光を感じて、神経の立っていた花房は狂奔的に首をぐんと上げて、五、六歩ほど後退《あとずさ》った。同時に、花房の後ろにいた浪岡は恐怖の発作で習慣的に前へ駆けだした。花房の尻と浪岡の頭部とが激しく突き当たった。身近くその尻っぺたへ一撃を受けて、花房は習慣的にぽんと蹴上《けあ》げた。その蹄鉄《ていてつ》が浪岡の膝に入った。浪岡は驚いて花房の周囲をぐるぐると駆け回った。
「どうした、どうした!」
 平吾が駆け寄ってきて、浪岡の首についている細引を取りながら言った。正勝は黙って紀久子のほうを見た。紀久子はそこに驚いていた。
「わたしが悪いんだわ。わたしが悪いのよ。わたしのこの服に驚いたのね」
 彼女は申し訳をするように言って、歩み寄った。
「紀久ちゃん! 出てきちゃ駄目だよ。隠れてください」
 正勝は叫んだ。紀久子は仕方なく土手の陰へ遠退《とおの》いた。そこへ松吉が走ってきた。
「怪我はねえか?」
 松吉はすぐ浪岡の身体《からだ》を調べた。
「あっ! 膝をやられてる」
 浪岡の膝からは赤黒い血がどくどくと湧《わ》いて、蹄《ひづめ》の上に流れていた。
「血管が切れたんだな?」
 その出血はだいぶひどかった。浪岡がぽこぽこと歩くにつれて、蹄の跡が幾つも幾つも赤黒く路面に残った。
「しかし、血管が切れただけで大したことはねえなあ」
「ないとも」
「しかし、あんまり出血させちゃ悪かんべなあ」
 松吉は首に巻いてある手拭《てぬぐ》いを取って、浪岡の膝を縛ろうとした。しかし、驚き切っている浪岡はその身近くに人を寄せようとはしなかった。
「畜生! 縛ってやろうというのに!」
「なんとかして、早く血を止めねえといけねえだろうがなあ」
「とにかく、ここじゃあ仕様がねえから、厩舎まで曳っ張っていこう」
 平吾は浪岡を曳き、正勝は花房を曳いて、厩舎のほうへ歩きだした。浪岡の膝からはひどく血が流れた。その足跡には赤黒く血が溜《た》まった。
「たわけめ! なんて間の抜けたことをしやがるんだ? たわけめ!」
 牧場主の森谷喜平が怒鳴り立てながらそこへ寄ってきた。
「なんだって怪我などさせやがったんだ?」
「お嬢さまが……」
 正勝は喜平の前へ出ると、思うように口の利けなくなるのが常だった。
「なにをっ! 紀久子が?」
「白い服を着て、あの土手のところから突然に……」
「正勝! てめえはまた嘘《うそ》をつくつもりか?」
 喜平はぴゅっと、手にしていた長い鞭を空間に打ち鳴らした。
「嘘なんか……」
「嘘でないっていうのか?」
「お嬢さまが……」
「なんでそんな嘘を言うんだ。わしはちゃんと見ていたんだぞ。見ていたから言うのだ。てめえが躓かせて、打ち転がしたんじゃねえか?」
「それは花房のほうで……」
「花房? それじゃあてめえは……あっ! 浪岡か? 浪岡に怪我をさせたのか? なんてことをしやがるんだ! たわけめ!」
 喜平はまたぴゅっと鞭を打ち鳴らした。
「正勝! てめえは大変なことをしたぞ。浪岡か? わしは見違えていた。花房と浪岡とを取り違えて見ていた。なんて馬鹿なことをするんだ。浪岡を捕まえたら、浪岡は新馬だから一頭だけ離して曳いてくりゃあいいじゃねえか。わしはまた、正勝が浪岡に乗って走らせているんだと思っていたんだ。それで、浪岡が躓いたと思ったから心配して出てきたんだ。ところが、なんという態《ざま》だ。躓いて転んだどころか、蹴らして大切な前脚へ怪我をさせるなんて、平吾! 早く手当てをしなくちゃ! 早く厩舎へ曳っ張っていって、脚へ重みがかからないように梁《はり》から吊《つ》って、そして岩戸《いわど》をすぐ呼んで手当てをさせろ!」
「ほらほら、ほらほらほら」
 平吾はすぐ浪岡を厩舎のほうへ曳いていった。松吉もそこに立っていても仕方がないので、浪岡についていこうとした。
「松吉! この花房を曳っ張っていけ!」
 喜平は怒鳴った。松吉は戻ってきて正勝から手綱を取った。正勝は寂しそうに項垂れた。
「正勝! てめえはこっちへ来い!」
 喜平はそう言って鞭をまたもぴゅっとひと振り振って、母屋のほうへ歩きだした。正勝は訝《いぶか》しそうにして躊躇《ちゅうちょ》していた。喜平は後ろを振り返って、またぴゅっぴゅっと鞭を振り鳴らした。
「来いっていったら来い!」
 正勝は仕方がなく歩きだした。

       6

 紀久子はどうしていいか分からなかった。
(困ったわ、困ったわ。あの人がお父さまの前に引っ張っていかれて、お父さまからひどく叱られたら、わたしのあのことを言ってしまいやしないかしら?)
 紀久子は恐怖に身を顫わした。いまの場合に正勝が父の部屋へ引っ張っていかれて叱られるということは、紀久子にとって、自分の犯罪の証人が裁判官の前へ引き出されていくのを見るよりももっと苦しかった。紀久子はできることなら、正勝をどうかして父の前へ出したくなかった。正勝の過失を引き受け、正勝の立場に代わり、なんとかして正勝を叱らせたくなかった。
(サラブレッドが怪我をしたのだって、あの人が悪いのじゃなくてわたしが悪いんだもの。わたしがあの時あそこへ出ていかなかったら、どの馬も狂奔なんかしなかったんだもの。結局、怪我をさせたのはわたしなのだわ)
 紀久子のそういう気持ちは、恋をしている少女が恋人の罪を引き受けようとする気持ちにさえ似ていた。紀久子は何物に代えても、正勝がその過失の責めから免れて父から叱られずに済むようにしてやりたかった。
(言ってやるわ。お父さまに言ってやるわ。サラブレッドに怪我をさせたのはあの人ではないんだもの。わたしなんだもの。それだのにあの人を叱るなんて、お父さまこそひどいわ。正勝さんのために言ってやるわ)
 紀久子はひどく昂奮《こうふん》しながら、母屋のほうへ駆けだした。

       7

 天井の高い四角な部屋だった。卵色の壁には大型のシェイフィルド銃と、古風な村田銃との二|梃《ちょう》の猟銃が横に架けられてあった。その下前には弾嚢帯《だんのうたい》が折釘《おれくぎ》からだらりと吊《つ》るされていた。そして、部屋の隅には黒鞘《くろざや》の長身の日本刀が立てかけてあった。床には大きな熊《くま》の皮が敷いてあった。その熊の皮を踏みつけて大書卓がガラス窓の下に据えられ、中央には楢《なら》の丸卓と腕つきの椅子が四つ置かれてあった。
「そこへかけろ!」
 鞭でその楢材の腕つき椅子を示しながら、喜平は怒鳴るように言った。正勝は静かに腰を下ろした。そして、将棋の駒《こま》のように肩を角ばらせて顔を伏せた。
「正勝! てめえは浪岡を幾らぐらいする馬か、知っているか?」
 喜平は書卓の前の回転椅子にどっかりと腰を据えながら言った。
「…………」
 正勝は静かに首を振っただけで、なにも言わなかった。
「知らねえ? しかし、てめえだって何年となく牧場にいるんだから、安い馬か高い馬かぐらいは知っているだろう」
「それは……」
「それみろ! てめえは浪岡が高価な馬だってことを知っていて、わしへの腹癒《はらい》せにわざと怪我をさせたんだろう?」
「そんな……そんな……」
「とにかく、てめえは蔦が逃げていったのを、わしらが苛《いじ》めたからだとでも思っているんだろう! 正勝!」
 喜平は鞭をしなしなと撓《たわ》めながら言った。
「…………」
 正勝は顔を伏せたまま、答えなかった。
「てめえはそう思っているんだな? 思うなら勝手に思うがいいや。しかし、いくら腹癒せだからって程度があるぞ。浪岡は五百や六百の金じゃ買える馬じゃねえぞ。投げて千二、三百円、客次第で、三千円ぐらいにだって売れる馬なんだぞ。それを怪我させて……」
「でも、死んだというわけじゃねえんで、血管が切れただけなんですから」
「血管が切れただけだからいいというのか? たわけめ!」
 喜平はそう言って怒鳴りながら、怒ったときの癖で鞭をまたぴゅっと打ち鳴らした。
「それも今日、買手が見に来るっていうんだぞ。怪我をしている馬に、だれが買手がつくもんか。千円、二千円となりゃあてめえなんか、一生かかったってできるかできねえか分かりゃしめえ。それを……」
「馬鹿正直に働いていたんじゃとても……」
「なにを? 馬鹿正直に働いていたんじゃ? ちぇっ! 利巧に立ち回ればできるっていうのか?」
「利巧に立ち回って悪いことでもしねえかぎり、おれだけじゃなく、だれにだって!」
「何を言ってやがるんだ。屁理窟《へりくつ》ばかりつべこべと並べやがって。いったい、てめえらはだれのお陰で育ったと思っているんだ? それも忘れやがって、わしに腹癒せがましいことができると思うのか?」
「旦那《だんな》! 旦那は少し思い違いをしているようですけど……」
「思い違い? 何が思い違いだ? てめえ、とにかくそこへ手を突いて謝れ!」
 喜平は長靴の踵《かかと》で荒々しく床を蹴った。正勝は唇を噛《か》んで、じっと喜平の顔を見詰めたまま黙っていた。
「謝るのがいやなのか? 謝る理由がねえというのか? 正勝!」
 喜平はもう一度、荒々しく床を蹴った。
「謝るのがいやなら出ていけ! この牧場から出て、てめえの好きなところへどこへでも行け! すぐ、いますぐ出ていけ!」
「はあ! いくらでも出ていきますがね」
「すぐ出ていけ!」
「それじゃあひとつ、出ていかれますように、お金を少し都合していただきてえんですが……」
「金? そんなことわしの知ったことか? てめえのような者に金を出してやる理由なんかありゃしねえ!」
「旦那! 昔のことを少し考えてみてくだせえ」
「なにを!」
「旦那は、おれがなにも知らねえと思っているのかね?」
「何を吐《ぬ》かしやがるんだ? たわけめ!」
「おれはこれでも、旦那一家の秘密を握っているんですからなあ」
「秘密? たわけめ! なんの秘密だ? わしを威《おど》かして金を出させようというのか? このたわけ者め!」
 喜平は立ち上がって鞭を振り上げた。正勝は肘《ひじ》で顔を掩《おお》った。鞭はぴゅっと空間で鳴った。

       8

 紀久子は、ばたりと床の上にくずおれた。
(あらっ! 秘密だなんて、あの人はあのことを言ってしまうのだわ)
 彼女はそれっきりで、もうなにも分からなくなった。

       9

 紀久子は自分のベッドの上で横たわっているのに気がついた。
「お嬢さま! お嬢さま! お気づきになりまして?」
 婆《ばあ》やが間近く顔を寄せながら言った。そして、その右手をわなわなと顫わしながら、赤酒《せきしゅ》らしい赤紫色の液体をなおも紀久子の口に勧めようとしていた。
「お嬢さま! 本当にしっかりなさいませんと……これをもう少し召し上がりませんかよ? お嬢さま!」
「あら! 婆や! わたしどうかして?」
「お嬢さまはじゃあ、なにもご存じございませんのかよう? わたしがお嬢さまにお茶を差し上げようと思いましてお茶を持ってまいりましたら、お嬢さまはそこに倒れていらしったのでございますよ」
「あら! わたしどうかしたのかしら?」
「わたしはまたびっくりいたしまして、すぐにここへ抱き上げて、それからはすぐに赤酒を持ってきて差し上げたのですがね」
「あら! それ赤酒なの? 葡萄酒《ぶどうしゅ》じゃないの? 赤酒なら貰《もら》うわ。わたし、赤酒大好きよ」
 紀久子はそう言って、蝋《ろう》のように白く、微《かす》かにわなわなと顫えている手を差し伸べてその赤酒をぐっと飲み干した。
「お嬢さま! お嬢さまはどこかお悪いのじゃございませんか」
「なんでもないわ。どこも悪くないのよ。脳貧血を起こしたのだわ」
「脳貧血だって、どこかお悪くないと……お嬢さまは、昨夜
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