んですから、捜しにいってこようかと思うんですけど……」
「本当に仕様のねえ奴だなあ、黙って逃げ出すなんて。黙って逃げていった奴なんか捜しに行ったところで仕方があるめえ。構わんでおきゃあいいじゃねえか?」
「それはそうですが、でも、自分の妹となってみると……」
「正勝! おまえはなんだってわしにひと言も挨拶《あいさつ》をしねえんだ! 自分の妹じゃねえか? 自分の妹を他人の家に預けておいて、妹がいくらかでも世話になっていると思ったら、黙って逃げていったというのに兄たるおまえが一言の挨拶もしないということはないじゃないか?」
「…………」
「済まないとか申し訳ないとか、なんとかひと言ぐらいは挨拶をするもんなんだぞ。それを一言の挨拶もしねえで、見えなくなったから捜しに行く旅費を貸せなんて、そんな言い方ってあるもんか? おまえはよくよく生まれたままの人間だなあ」
「…………」
「いったいどこへ行ったのか、見当がつくのか?」
「東京らしいんで……」
「東京らしい? たわけめ! 逃げていった者を東京くんだりまで捜しにいって、なんになるんだ? たわけめ!」
「いますぐなら、札幌《さっぽろ》の伯母のところに寄っていると思うもんですから」
「馬鹿《ばか》なっ! 逃げていったもんなんか捜しに行くことねえ! それより、正午《ひる》前にサラブレッド系の馬を全部捕まえておけ、買い手が来るのだから」
「…………」
 正勝はなにも言わずに上目遣いに喜平を見て、それからその目を紀久子のほうに移した。紀久子ははっと胸を衝かれた。憎悪! 怨恨《えんこん》! その目は爛々《らんらん》として憎悪と怨恨とに燃えていた。
「なんて目をしやがるんだ? たわけめ!」
 喜平は怒鳴りつけた。
「そんな目をしていねえで、早くあっちへ行け! そうして、すぐサラブレッド系の馬を三頭とも全部捕まえておけ! 買い手が来てから捕らえるなんて言ったって、そん時になってからじゃ容易なこっちゃねえから」
 正勝はもう一度、憎悪と怨恨とに燃える目を上げて、露台の上の父親と娘とをじっと睨《にら》むようにして見てから、静かにそこを離れていった。
「たわけめ!」
 葉巻の煙を空に向かって吐きながら、喜平はもう一度、正勝の後ろから怒鳴りつけた。
 項垂《うなだ》れて、静かにそこを歩み去っていく正勝の後姿はひどく寂しかった。

       2

 紀久子はわなわなと身を顫《ふる》わせながら席を立った。
(あんなに叱《しか》りつけて……あんなに怒鳴りつけて……あの人がもしあのことをだれかに言ったりしたら……)
 紀久子はそれを考えただけで全身が木の葉のようにわななくのだった。彼女は心配で胸が痛くなっていた。顔が蝋《ろう》のように白かった。
(あの人がもしわたしたち父娘《おやこ》を憎んで、あのことをだれかに言ったら、わたしはどうなるのだろう?)
 それを考えると、紀久子は一時《いっとき》もじっとしてはいられなかった。
(お父さまはなにも知らないで、あの人をあんなにひどく叱ったり、蔦代のことを悪く言ったりしたけど、何もかもみんなわたしが悪いのだから、それをあの人にだれかへ話されたら……)
 紀久子は夢遊病者のようにして、しかし、逃げていく者を追うような慌ただしさで自分の部屋へ入っていった。
(あの人が金が要るというのなら、わたしが出してあげよう。あの人は蔦代を捜しに行くから旅費を欲しいと言っているけど、本当はお金だけが必要なのに相違ない。お金ならわたしでできることなのだから、わたしがしてあげよう)
 紀久子はそう心の中に呟《つぶや》いて、手文庫の底からそこにありたけの紙幣《さつ》を掴《つか》むと、それをポケットに突っ込んで自分の部屋を出た。
(わたしがこうまでしたら、あの人はお父さまのことは許してくれるに相違ない。お父さまはなにも知らずにあんなことを言っているのだし、あの人は要するに金が必要なのだから……)
 紀久子はそう考えながら、帽子を目深に被《かぶ》って裏庭から厩舎《うまや》のほうへと走っていった。

       3

 厩舎の前には三頭の馬が引き出されて、三頭の馬にはそれぞれ鞍《くら》が置かれていた。そして、馬に鞍を置いてしまうと、正勝と平吾《へいご》と松吉《まつきち》の三人の牧夫は銘々に輪になっている細引を肩から袈裟《けさ》にかけた。そして、正勝は葦毛《あしげ》の花房に、平吾は黒馬《あお》に、松吉は栗毛《くりげ》にそれぞれ跨《またが》った。
「おい! 東からやるか?」
 正勝は同僚を見返りながら、朗らかに言った。
「西からのほうがいいじゃないか?」
「西から?」
 とたんに、正勝の拍車が花房の胴に入った。花房はとっとっと軽やかに※[#「足へん+鉋のつくり」、第3水準1−92−34]を踏んで放牧場のほうへ出ていった。続いて黒馬が走った。厩舎の前にぐるぐると円を描いて出足の鈍っていた最後の栗毛は、胴にぐっと拍車の強い一撃を食らって急にぴゅーっと駆けだした。そして、たちまちのうちに黒馬を抜き、葦毛の花房を抜いて走った。それを見て黒馬が走り葦毛が駆けだし、三頭の馬は土埃《つちぼこり》を掻《か》き立てながら、毬《まり》のようになって新道路を走った。
 やがて、毬のようになって土埃の中に掠《かす》れていた三頭の馬は、道路から草原の中へと逸《そ》れていった。
 春楡と山毛欅とが五、六本、草原に影を落として空高く立っていた。その下に小笹《こざさ》が密生していて、五、六頭の放牧馬が尾を振り振り笹を食っていた。栗毛と黒馬と葦毛の三頭の馬はV字形の三角形になって、その一団の放牧馬を襲った。人に慣れていない放牧馬はそれを見て、雲のように四散した。
「浪岡《なみおか》だぞ! 右へ逃げたその葦毛の……」
 正勝はそう叫びながら、首を上げて逃げていこうとする新馬の右手へと、半円を描くようにして走った。そして、三間(約五・四メートル)ばかりの距離にまで追い詰めると、肩にかけてある細引を取ってその右斜め後ろから投げかけた。手繰っては投げ手繰っては投げかけた。葦毛の新馬浪岡は驚いて逃げ回った。細引は容易にかからなかった。正勝は何度も投げかけた。そのうちに、細引がくるくるっとその新馬の肩から胴に入った。
「早く早く! 早く」
 正勝は叫びながら細引を引いた。その瞬間、巻き付いた細引の解かれるまでの間を、馬は縛られた形になって動くことができなかった。その機に乗じて平吾は黒馬を飛ばし、その新馬浪岡の左斜めから鬣《たてがみ》に飛びつき、首に綱をかけた。
「オーライ!」
 黒馬はそして、首に綱をつけられて逃げ回ろうとする馬を引き摺《ず》るようにして斜面を駆けだした。
 正勝は花房に※[#「足へん+鉋のつくり」、第3水準1−92−34]を踏ませながら、馬上で細引を輪に巻いた。そして、細引を手繰り終わると厩舎を目がけて正勝は、ぐっと拍車を入れた。栗毛がそれに続いた。栗毛は最初のうちは花房と五間(約九メートル)ばかりの距離を保っていたが、胴に拍車の一撃を受けると急に駆けだして、花房の右を抜こうとした。若い葦毛の花房は、それを見ると、急に一足跳びに移った。胴をぐっと伸ばして、放牧場の草原の中を一直線に走った。正勝は手綱を緩めて、花房の走るに委《まか》せた。花房は疾風のように飛んだ。正勝はまったく手綱を緩めて、若いしなやかな脚の走るに委せながら、反動も取らずに鐙《あぶみ》の上に突っ立っていた。
「おっと!」
 叫んだ瞬間に、正勝は草原の上へどっと投げ出されていた。しかし、どこにも怪我《けが》はなかった。すぐ起き上がって花房のほうを見ると、花房は足掻《あが》きをして起き上がろうとしながら起き上がれずにいた。
「どうしたんだ?」
 栗毛の松吉が駆け寄りながら言った。
「前脚を折ったらしい」
「折ったって?」
「折ったわけでもねえらしいが……」
 言いながら、正勝は、手綱をぐっと引いた。
「ほらっ! 畜生!」
 花房は起きようと努めながら、容易に起き上がれなかった。
「畜生! ほらっ! どうしたんだい?」
「手綱を放して、尻《しり》っぺたを食わしてみろ!」
 正勝は松吉の勧めるままに、手綱を放して尻に回った。そして鞭《むち》を振り上げると、花房はふた足三足ぐいぐいと足掻きをして、鞭を食う前に起き上がった。
「なんでもねえねえ」
「歩かしてみろ! 少しおかしいから」
 正勝は手綱を取り、鞭を振り上げて花房に半円を描かせた。すると花房は、右の前脚がだらりとして、それに力のないような歩き方をした。
「変だなあ?」
「筋が伸びたんだよ。膝《ひざ》を突いたときに筋が伸びたんだから、なんでもねえ。三、四日も休ませておきゃあ治るよ」
「なんでもねえかなあ?」
「なんでもねえとも。しかし、三、四日は乗れねえなあ。北斗《ほくと》かなんかに乗りゃあいいじゃねえか?」
「また親父《おやじ》に怒鳴られるなあ」
「隠しておきゃあいいじゃねえか。三、四日のことだもの」
 そして、松吉はややもすれば駆けだそうとする栗毛の手綱を引き締め、正勝は跛《びっこ》を引く葦毛を曳いて、放牧場の斜面を新道路のほうへと下りていった。
「どうかしたのか?」
 平吾が黒馬の上から声をかけた。平吾はそうしているうちにも、いま捕まえたばかりのサラブレッド系の新馬浪岡が思うように手綱につかないので、困り切っていた。
「なんでもねえ。前脚の筋が少し伸びたらしいんだ。ほんで乗れねえんだよ」
「おい! ほんじゃ、この浪岡をおまえが曳っ張っていけ。新馬も曳っ張らねえで歩いていくと、親父がまたなんかかんか言うから」
「それさなあ。ほんじゃ、その浪岡をおれさ寄越せや」
 そして、正勝は浪岡の首についている細引を平吾から受け取った。
 平吾は新馬を正勝に渡して手軽になると、松吉と並んで馬を駆けさせた。正勝はうるさくぐるぐると縺《もつ》れる精悍《せいかん》な新馬を縺れないように捌《さば》きさばき、草原の斜面を下りていった。

       4

 紀久子は厩舎の前に立って、じっと放牧場のほうを見ていた。
 秘《ひそ》かに部屋を出て厩舎へ来てみると、そこには三人の牧夫が馬に鞍を置いていて、正勝にだけ秘密の話をすることはできなかったからである。紀久子はそこに立っていて、機会の来るのを待っているより仕方がなかった。彼女はいつまでも放牧場のほうを見ていた。
 紀久子の心のうちはそうしているうちにも、決して平和ではなかった。
(あんな風にしているうちに、あの人はほかの人たちへあのことを話さないかしら?)
 紀久子は自分の胸に何匹かの蝮《まむし》がいるような気さえした。彼女は、正勝が早く厩舎へ帰ってくることを願っていた。
(蔦代を捜しに行くという口実であの人がどこかへ行ってしまったら、わたしはどんなにかほっとするのに……)
 紀久子はそう考えて、正勝がこの牧場から姿を消すというのならどんなことでもしてやりたかった。そして、彼女は正勝が早く厩舎へ帰ってくるのを待った。
(この金さえ渡せば、あの人はすぐもうこの牧場からいなくなるのだわ)
 やがて三頭の馬は一頭の新馬を拉《らっ》して、厩舎を目指して帰ってきた。紀久子は正勝の花房が真っ先に帰ってくることを願った。ところが、花房は途中で木の根に躓《つまず》いて跛を引きだした。
(あら! あの人はまたお父さまから叱られるのだわ)
 紀久子は自分のことのように心配になった。いまの彼女にとって、自分が叱られることよりも正勝が叱られるのはもっといやなことだった。恐ろしいことだった。
(わたしどうしようかしら?)
 紀久子は心臓の熱くなるのを感じながら、厩舎の前から放牧場のほうへ出ていった。
(わたしはあの人の身代わりになろう。花房の脚を折ったのは、正勝ではなく、わたしだということにしよう。わたしが花房に乗って駆けているうちに、花房が躓いて転んだのだと言えば、お父さまは叱らないに相違ないから。そして、ついでに金を渡してしまえば、あの人はこの牧場から姿を消してしまうに相違ないから)
 紀久子はそ
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