代! 駄目! 逃げちゃ!」
紀久子はその銃身をもって蔦代を押さえつけた。
瞬間! 銃は音を立てて発砲した。蔦代はがくりと倒れた。
「あらっ!」
紀久子はがたんと銃を取り落とした。
「あらっ!」
紀久子の顔は紙より白くなった。紀久子はもうどうしていいのか分からなかった。彼女は大声を上げて泣きたかった。しかし、泣けなかった。彼女は致死期の蔦代の身体《からだ》の上に身を投げかけて謝りたい気もした。しかし、彼女にはそれもできなかった。彼女はただわなわなと身を顫わした。
自分の思いがけぬ罪に対する恐怖に噛み苛《さいな》まれながら、彼女は亡失状態の中で微《かす》かにひくひくと蠢《うごめ》いている蔦代の致死期の胴体を見詰めていた。
発砲と同時に、馭者台から身を向け直して蔦代の上に目を落としていた正勝は、その目を上げて紀久子を見た。その目は爛々《らんらん》と火のように輝いていた。唇がわなわなと顫えていた。
「正勝《まっか》ちゃん! どうしましょう? どうしましょう?」
紀久子は正勝を、彼の幼少時のまっか[#「まっか」に傍点]ちゃんという呼び名で呼んで、ようやくそれだけを言った。
「正勝ちゃん」
しかし、正勝もどうしていいのか分からなかった。彼はただその目を爛々と輝かしていた。その目にはなにかしら、許すまじきものがあった。
「正勝ちゃん! わたしも殺してちょうだい! この鉄砲でわたしも撃ってちょうだい!」
紀久子はふらふらと倒れるようにして屈《かが》み、銃を取って正勝の手に渡そうとした。
「正勝ちゃん! わたしも殺してよ。ねえ! 正勝ちゃん!」
「紀久ちゃん!」
正勝は言った。彼女の幼少のときに彼が呼んでいたと同じ呼び方で、正勝は紀久子を呼んだ。しかし、それだけで正勝はなにかしらひどく硬張《こわば》って、あとを続けることができなかった。
「正勝ちゃん! わたしを撃って。ねえ! わたしを撃って。痛くないように、ひと思いに死ねるようにわたしの心臓を撃ってよ」
紀久子は少女のような態度で言うのだった。
「紀久ちゃん! 心配することはねえ」
正勝は力強く言った。
「紀久ちゃんは昔の紀久ちゃんではなくなって、おれなんかのことはもう馬か牛のように思っているようだげっども、おれはいまだって……」
「そんなことないのよ。わたしだって、正勝ちゃんのこと兄さんか何かのように思っているのよ」
「そんなことは信じないけども、おれだけは、おれだけは紀久ちゃんのこと、昔と同じように思っているんだ。友達で一緒に遊んでいた時分のことなんか考えると、おれは紀久ちゃんを死なせたくなんかないんだ。でもなかったら、おれだってもうどこかへ行ってしまっていたかもしれないんだ。ただ、紀久ちゃんのいる近くにいて、いつまでもいつまでも紀久ちゃんを見ていたいからこそ、おれはこうしているんだ。たとえ紀久ちゃんが結婚をしてしまっても、おれはやはり紀久ちゃんの傍を離れられねえような気がするんだ。奴隷のようにされても、牛馬のように思われても、やはりおれは紀久ちゃんの傍にいたいんだ。おれはやっぱり、いつまでもいつまでも紀久ちゃんを生かしておきたいんだ。紀久ちゃんが死んだからって、蔦が生き返るわけでもあるまいし……」
「でも、わたし、人を殺したんだから、わたしも殺されるのが本当だと思うわ。殺されないまでも、わたし、何年も何年も監獄に繋《つな》がれることなんか考えると、かえって殺されたほうがいいわ。正勝ちゃん! わたしを殺してよ! ねえ!」
紀久子は泣きだしそうにして言うのだった。
「大丈夫だ! 心配することなんかねえよ。蔦がいまいなくなったって、だれも蔦のことなんか気にかけやしねえ。蔦なんか、猫の子が一匹いなくなったよりももっと、なんでもない人間なんだから」
「そんなことないわ。すぐ知れるわ。そして、真っ先に調べられるのはわたしと正勝ちゃんだわ。そしたらわたし、すぐ顔色が変わってしまうわ。顔色ですぐ分かってしまうわ」
「大丈夫だ。都合のいいことに蔦の奴《やつ》がおれに書置きをしてあったんだよ。だれか、蔦のいなくなったのを不思議がる奴があったら、蔦の書置きを見せりゃあそれでいいんだ」
正勝はそう言って、一本の手紙を懐から取り出した。
「こんな風に書いてあるんだから……」
紀久子に示しながら、正勝はもう一度それを覗《のぞ》き込んだ。
兄上さま。わたしのたった一人の兄さん。わたしは悲しくてなりません。今日かぎり、しばらくはお目にかかれないのだと思いますと、わたしは悲しくてなりません。それでも、わたしは悲しいのをこらえて、東京へ出ていく決心をいたしました。わたしのたった一人の兄さんを残して、自分だけ東京へ行くのだと思うと、わたしは悲しくてなりません。それでも、いまのうちに悲しいのをがまんして、東京へ出ていったほうがいいと思いますから、わたしは決心してしまいました。兄さんにだけは相談してからと思ったのですけど、兄さんはきっと止めると思いますし、止められては、わたしも兄さんもこのまま一生不幸に終わってしまうのですから、兄さんにも相談しないで、わたしは一人で決心しました。わたしのことは死んだものと思って、どうぞ捜さないでください。そのうちわたしも兄さんも幸福に暮らしていけるようになったら、わたしはきっと手紙を出します。そして、兄さんを東京へ呼びます。そして、兄さんをきっと幸福に暮らさせてあげます。わたしも兄さんも、このままでいたのでは、一生たったって幸福にはなりません。兄さんは一生たったって下男でいなければなりませんし、わたしは女中奉公をしていなければならないのですもの。わたしはそれを考えると悲しいのです。兄さんと別れていくのも悲しいのです。けれど、それはほんのちょっとの間のことです。二年か三年のうちには、わたしはきっと、兄さんに手紙を出して東京に呼びます。それまでは捜さないでください。わたしはどこにいても、毎日毎日兄さんの幸福を祈っています。わたしのことは死んだものと思って、どうぞ捜さないでください。そして、わたしが東京へ行ったことは、旦那《だんな》さまやお嬢さまに訊かれても、知らさないでください。兄さんだけ心のうちに思っていてください。お父さまやお母さまの生きていたときのことを思い出したり、これからは兄さんが洗濯などまで自分でしなければならないことを考えると、涙が出てなりません。お父さまやお母さまのお墓にも、一日も早く石を立てたいと思います。それには、このままでいたのでは駄目だと思いますから、わたしは思い切って東京へ行くのです。わたしのことは死んだものと思って、どうぞ諦めてください。涙が出て書けませんからこれでやめます。どうぞお身体を大切にしてください。兄さんに万一のことがあると、わたしは天にも地にも、ほんとうに一人きりになってしまうのですから。ではさよなら。愚かしき妹の蔦代から。
正勝の目には、またも熱い涙が湧いた。しかし、彼はその悲しみのためにも、躊躇《ちゅうちょ》しているべきときではなかった。
「これを証拠として見せりゃあ、だれも疑いをかけやしませんよ」
「でも……でも……その死骸《しがい》を……」
「死骸なんか、この谷底へ投げ込んでしまえばすぐもう熊に食われてしまうだろうし、熊に食われなくたってすぐもう雪が積もるから、来年の四、五月ごろになって雪が消えてから発見されても、自分で谷へ落ちて死んだのか鉄砲で殺されたのか、そのころには全然分からなくなっていますよ」
「正勝ちゃん! では、わたしの罪を庇《かば》ってくれるの?」
「紀久ちゃんにはおれの気持ちが、おれが紀久ちゃんをどんなに想《おも》っていたかってこと、分からないのかい?」
「分かってよ。ご免なさいね、いままでのこと許してね」
正勝はもうなにも言わなかった。彼は黙って馬車から飛び降りた。そして、すぐ妹の死体を抱き上げたかと思うと、それを崖際《がけぎわ》へ持っていって、谷底を目がけて投げ込んだ。そして、蔦代の死体は岩角に突き当たり突き当たり、深い谷底へと雑草の間を転がり落ちていった。どこかでふた声三声、高く鷹《たか》が鳴いた。
[#改ページ]
第二章
1
森谷牧場主の邸宅は、高原放牧場のほとんど中央の地点にあった。緩やかな起伏がひと渡り波を打って過ぎた高原地帯の波形の低い丘を背にして、なおその下の放牧場をひと目に見下ろせる中階段の位置に、土手で取り囲んだ屋敷を構えているのだった。その周囲には春楡《はるにれ》や山毛欅《ぶな》などの巨大な樹木が自然のままに伐《き》り残されていて、ひと棟の白壁の建物が樹木の間に見え隠れていた。そして、その屋敷の前から二間幅(約三・六メートル)の新道路が三、四町(約三三七〜四三六メートル)の間を、放牧地の草原を一直線に割って走っていた。
白壁の建物は日本建築ながら洋風めいていて、南向きの広い露台を持っていた。木材の多い地方ではあるが雪に埋もれる期間が長いので、露台はコンクリートでできていた。コンクリートの階段と手摺《てす》りとがあり、階段の上がり口には蘇鉄《そてつ》や寒菊や葉蘭《はらん》などの鉢が四つ五つ置いてあった。
露台の中央には籐《とう》の丸テーブルと籐椅子《とういす》とが置かれて、主人の森谷|喜平《きへい》は南に向いて朝の陽光をぎらぎらと顔に浴び、令嬢の紀久子は北を向いて陽光を背に受け、向き合って腰を下ろしていた。丸テーブルの上には二つの紅茶|茶碗《ぢゃわん》が白い湯気を立てていた。そして、喜平は紅茶には手を出さずに、林檎《りんご》の皮を剥《む》いていた。
「脚《きゃく》がよく締まらないのは、そりゃあ胴が太いからだろう?」
喜平は林檎の皮を剥きながら、微笑をもっていつものように乗馬の話をしていた。
「なんか知らないけど、わたし駄目だわ」
紀久子は父親の顔を見ないようにしながら、元気なく言った。彼女はいつになく元気がなかった。彼女は丸テーブルの上の紅茶にさえ手を出そうとはしなかった。彼女の純白の、天鵞絨《ビロード》の乗馬服の肩さえが、なんとなく寂しかった。
「駄目なことがあるもんか。馬を替えてみたらどうかな? 花房《はなぶさ》ならいいだろう?」
「わたしもう乗馬をやめるわ」
「なにもやめることなんかあるものか。初めはだれだってそう思うもんだ。しかし、そこを押し通さなくちゃ何事も上達はせんもんじゃからなあ」
「でも、わたしなんか駄目だわ」
「とにかく、花房で当分練習してみるといい。花房なら胴が細いから脚も締まるし※[#「足へん+鉋のつくり」、第3水準1−92−34]《だく》もよくやるし、きっとおまえの気に入ると思うから」
「わたしもう乗馬なんかあっさりやめてしまうわ」
「やめてしまわんでもいいじゃないか? 停車場へ敬二郎を送るときだって、これからは馬車などで送らないで馬で送っていくようにならないといかんよ」
喜平はそう言って、大口に林檎を頬張《ほおば》った。紀久子は父親の言葉に衝《つ》かれたらしく、伏せていた目を上げて父親の顔を見た。紀久子のその顔は燐光《りんこう》を浴びてでもいるように病的なほど青く、窶《やつ》れてさえいた。
「馬で送っていって、そして帰りには敬二郎の馬も一緒に曳《ひ》いて帰れるようにならんとなあ」
父親は微笑しながら、戯《ざ》れめく口調で言うのだった。
そこへ、正勝がのっそりと歩み寄ってきた。喜平はすぐそれに気がついて目をやった。紀久子もそこに目を向けた。その瞬間に、紀久子は急に顔色を変えて恐怖の表情を湛《たた》えた。
「なんか用か?」
喜平は突慳貪《つっけんどん》に言って、冷めかけた紅茶をいっきに飲み干した。
「少しお願いしたいことがあったものですから……」
「どんな話だ?」
怒鳴るように言って、喜平はそっぽを向いた。そして、乗馬服の上着のポケットから葉巻を抜き取って、それに火を点《つ》けた。
「お金を少し借りてえのですけど……」
「金! 金を何にするんだ?」
「蔦の奴《やつ》が急にどこかへ行きやがったも
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