なくなるから、いまのうちだけでもそう思っているんだね」
「変なこと言うね」
 詰め寄るようにして敬二郎は言った。
「何が変なことなんだ。おれは本当のことを言っているんだ。本当のことを言うのが変なのか?」
 正勝は開き直って鋭く言った。彼はもう微笑んではいなかった。敬二郎は取りつき場を失った。
「ぼくには、それがどうも気になって仕様がないんだよ」
「良心に恥じるところがあるからさ」
「そんなものはないがね」
「なかったら、なにも気にかけることなんかないじゃないか?」
「きみが変なことを言うからだよ。いったい何のことだか、はっきりと言ってくれたまえ。頼むから」
「そんなら言ってやろう。しかし、せっかくの楽しい夢がそれでもう覚めてしまうかもしれないぞ。それでもいいんなら言おう」
「構わないとも。話してくれ」
「言ってみればまあ、おれときみとの立場も地位も、全然反対になってしまうのさ」
「立場が反対になる?」
 敬二郎は驚きの目を瞠《みは》って正勝の顔を見詰めた。しかし、敬二郎はしだいに驚きの表情を失って、侮蔑的な微笑に崩れていった。そして、敬二郎は侮蔑的に微笑みながら揶揄《やゆ》的に訊いた。
「それはどういうわけかね」
「理由か? 理由は簡単だ。いままではこの牧場のことは何から何まで旦那《だんな》の意志一つで支配されていたんだが、これからは紀久ちゃんの意志一つで支配されることになったんだから……」
「それはそうだ。しかし、紀久ちゃんの意志で支配されることになったからって、ぼくの立場や地位がどうして変わるんだね? どうして、ぼくときみとの立場が反対になるんだえ?」
「それが分からないのか?」
「ぼくには分からんね。どういうことなんだえ? それを聞かしてくれ」
「きみは……紀久ちゃんは自分の意志で、きみと結婚をしようとしているのだと思っているのか? 純然たる自分の意志で?」
「それはそうだろうなあ」
「はっはっはっ!……」
 正勝は大声に笑いだした。
「自惚《うぬぼ》れにもほどがある。……紀久ちゃんが紀久ちゃんだけの意志で、いくらなんでもきみとなどと結婚をしようたあ思っちゃいないだろうなあ。それはおかしい。まったくおかしい……」
 正勝はそう言って大声に笑いつづけた。敬二郎はぶるぶると身を顫《ふる》わせながら、真っ赤になった。しかし、正勝はなおも大声に笑いつづけるのだった。
「何が、何がそんなにおかしいんだえ? 紀久ちゃんの意志がどうか知らないが、いまにぼくと紀久ちゃんが一緒になることだけは確かなんだ。その時になってから、なんとでも言いたいことを言うさ。ぼくは自分の下男から軽蔑されて、それで黙っているような、それほどの善人じゃないから」
 敬二郎は怒りのために吃《ども》りどもり、身を顫わせながら言うのだった。
「はっはっはっ? ……驚き入った。恐れ入ったよ。まったく! ……しかし、旦那さま然と構えるなあどうも少し早いような気がするがなあ」
「何が早いんだ? すでに決定していることが、何が早いんだ?」
「しかし、自分の意志で自由にできることになると、紀久ちゃんだって、だれか本当に自分の好きな人と結婚をするかもしれないからなあ。きみはすると、いまのおれのように下男として働かなくちゃならなくなるかもしれないからなあ。そして、これはどうもそんなことになりそうだよ」
「何を言っているんだ。きみはそれで、ぼくを軽蔑し切っているんだな? 帰ってきても挨拶《あいさつ》もしなければ、勝手に物を持ち出したりして。どんなことになるか、いまに目の覚めるときがあるさ」
「少なくとも、おれはきみを旦那さまとして戴《いただ》くようなことは絶対にないなあ。その時が来たんだ」
 正勝は投げつけるように言いながら、厩舎の前から放牧場のほうへ歩きだした。
「夢を見てやがる。妹が人殺しをしたので、おかしくなりやがったんだろう」
 敬二郎は正勝の後姿を見送りながら、独り言のように呟いて唇を噛《か》んだ。

       2

 敬二郎の胸は嵐《あらし》のように騒ぎだした。
(正勝の奴《やつ》はこのおれから、紀久ちゃんを奪《と》ろうとしているのじゃないのかな?)
 そんな風に敬二郎は考えたのだった。
(そして同時に、この森谷家の財産を、つまりおれの財産を、正勝の奴はおれから奪ろうとしているのじゃないのか?)
 敬二郎は身内に、鋭い銀線の駆け巡るような衝撃を感じた。
(正勝の奴と紀久ちゃんとは兄妹のようにして育ったのだし、子供の時分にはおれのほうより正勝の奴を紀久ちゃんは好きだったのだから……)
 そこへ、電報配達夫が凍りついてコンクリートのようになっている凸凹の道を、自転車で寄ってきた。
「正勝さんはいますか?」
 電報配達夫は自転車から飛び下りながら言った。
「電報か?」
 敬二郎は目を瞠りながら言った。
(正勝の奴へ? 正勝の奴へいったい、どこから電報など来るところがあるのだろう?)
 敬二郎の軽い驚きの中には、嫉妬《しっと》の気持ちさえ加わってきていた。
「正勝さんへ来たんですがね」
 電報配達夫は、それでも小さな赤革の鞄《かばん》の中から電報を取り出した。
「だれのでもいい、貰《もら》っておこう。正勝は放牧場のほうへ行っているから」
「それでは、あなたから渡してくださいね。頼みますよ」
 電報配達夫はそう言って敬二郎の手に電報を渡してしまうと、すぐまた自転車に跨《またが》って凸凹の道を帰っていった。敬二郎は電報を手にして、じっと電報配達夫の後姿を見送った。電報配達夫は間もなく放牧場の外周を繞《めぐ》っている高い土手の陰に消えた。敬二郎はそこで、放牧場の中に正勝の姿を探した。しかし、正勝はどこにも見えなかった。
 敬二郎は厩舎《きゅうしゃ》の中へ引き返した。そして、彼は激しく躍る胸をじっと抑えるようにして、その電報を開いた。
(=ムザイニケツテイ 三四カウチニカエル キクコ=)
 電報にはそうあった。
 敬二郎の心臓は裂けるほど激しく、湯のような重い熱を伴って弾みだした。同時に、彼はその電文を疑わずにはいられなかった。彼は厩舎の戸口へ行って、明るい外光に宛名《あてな》をかざした。
(=ヒガシハラ モリタニボクジヨウナイ タカオカマサカツ=)
 瞬間、敬二郎の耳は汽笛のように鼓膜を刺して鳴りだした。同時に、激しい苦痛が心臓に食いついてきた。頭の中を火の車のようなものが、慌ただしく回転した。
(彼女は心変わりがしたのだ。正勝の奴に騙《だま》されて、彼女は急に心変わりがしたのだ)
 敬二郎は火を吐くような息をして、心の中に呟いた。
(正勝の奴がいるからなのだ。正勝の奴さえいなければ、彼女の気持ちがこんなに急に変わるわけはないのだ)
 敬二郎は電報を洋服のポケットに突っ込んで、厩舎の中からぴゅうっと飛び出した。そして、彼は自分の部屋に入っていった。部屋に入ると、彼は壁にかけてある猟銃を引っ掴《つか》んだ。そして、すぐまた戸外へ飛び出していった。
(正勝の奴を、どんなことがあっても怒らしちゃいけない。あいつの機嫌をとっておいて、あいつが油断をしているとき……)
 敬二郎は気を静めながら、放牧場のほうへ駆けだしていった。しかし、正勝の姿は放牧場のどこにも見えなかった。
「開墾場のほうへ行ったのかな?」
 敬二郎はそう考えて、四角なコンクリートの正門から道路のほうへ出ていった。ちょうどそこへ、正勝が急ぎ足に寄ってきた。しかし、正勝は敬二郎の姿を見ると急に立ち止まった。
「敬二郎くん! 何を昂奮《こうふん》しているんだえ?」
 正勝は目を瞠って言った。
「熊《くま》が出たんだよ。楡《にれ》の木の上の林から放牧場のほうへ、のそのそと出てくるのがはっきりと見えたんだ。一緒に行ってくれないかね」
 敬二郎は胸を弾ませながら言った。
「熊が? それじゃ、おれたちばかりでなく、大勢で行こう」
「ぼくときみだけで沢山だよ」
「それより、きみはおれの電報を預かってるはずだな? いまそこで配達夫がそう言っていたが……」
「熊が出たんで、電報のことなんか忘れてしまっていた」
 敬二郎は狼狽《ろうばい》しながら電報を取り出した。
「紀久ちゃんからだろう?」
 正勝はそう言って、すぐその電報を広げた。
「おっ! 無罪に決定! 無罪に決定! 無罪ということにいよいよ決定したんだ。無罪に決定! 無罪に決定! 無罪に……」
 正勝はそう叫びながら、電報をひらひらと振り、急に踊りだした。
「正勝くん! 何がそんなに嬉《うれ》しいんだえ?」
 敬二郎は侮蔑的な微笑をもって言った。
「当然のことじゃないか! 紀久ちゃんが無罪に決定して、三、四日うちには帰ってくるんだもの。ほっ! 無罪に決定! 無罪に決定!」
「正勝くん! きみは紀久ちゃんが無罪に決定したのが、そんなに嬉しいのか? 自分の妹を殺した女が無罪に決定したって、何が嬉しいのかぼくには分からないなあ」
「おれにとって嬉しいこたあ、いまとなってみればきみにとっちゃ悲しいことさ」
「何を言っているんだ! きみは妹をかわいそうだとは思わないのか? 自分の妹を殺した女がたとえ幾月にもしろ、刑務所に……」
「余計なお世話だよ。蔦と紀久ちゃんとを一緒にされるもんか。紀久ちゃんのためなら、蔦なんか百人殺されたっていいんだ。紀久ちゃんとおれとがどんな風にして育ってきたか、それを考えてみろ。それから、この牧場が出来上がるまでおれの親父《おやじ》がどんなに難儀したか、それを考えてみろ! おれの親父は言ってみれば、この牧場のために死んだんだぞ」
「そのことと、紀久ちゃんが無罪になったということと、どう関係があるんだね?」
「おれが言わなくても、紀久ちゃんが三、四日うちに帰るから、それまで待っているんだね。おっとどっこい! 無罪に決定! 無罪に決定!」
 正勝はそう言って、ふたたび踊りだした。
「正勝くん! それはそれとして、それじゃ、早く一緒に行ってくれ」
「熊か? おれはご免だ。紀久ちゃんが帰ってこねえうちに、熊と間違えて殺されたりしちゃ困るからなあ。だれかほかの奴を連れていけよ。おれは前祝いでもしてくるから。おっとどっこい! 無罪に決定だ! 無罪に決定! 無罪に決定!」
 正勝はそう叫びながら、踊るような足つきで敬二郎の前を離れていった。

       3

 開墾場を貫通する往還を挟んで、五、六軒ばかりの木羽屋根《こばやね》の集落があった。森谷牧場と森谷農場とを目当てとしての、つまり、牧場と農場での労働に身体《からだ》を磨《す》り減らして余生を引き摺《ず》る人々によって形成されている、唯一の商業集落であった。雑貨店・雑穀屋・呉服店、小さな見窄《みすぼ》らしいそれらの店の間に挟まって、一軒の薄汚い居酒屋があった。
 正勝は踊るような足つきをしながら、その居酒屋の中へ入っていった。
 居酒屋の薄暗い土間の中央には四角の大きな炉があって、真っ赤に火が燃えていた。そして、その炉の周りには、無造作な造りつけのテーブルと腰掛けとが繞《めぐ》らされてあった。正勝はその腰掛けの一つに、身体を投げ出すようにして腰を下ろした。
「爺《じい》さあ! 一本つけてくれないか?」
「おっ! 正勝さんか? これはこれはしばらく」
 卯吉爺《うきちじい》はそう言いながら、ぼそぼそと土間へ下りてきた。
「熱くしてもらいたいなあ」
「熱く? あいよ。ときに、裁判はどんなことになったか、決定しねえかね?」
 卯吉爺は燗《かん》の支度をしながら訊いた。
「無罪さ? 無罪に決定したんだ」
「無罪? ほっ! 無罪かね。それじゃ、敬二郎さんは喜んでるベ?」
「敬二郎の奴なんか、なにも喜ぶわけねえさ。紀久ちゃんは敬二郎の奴なんか好きじゃねえんだもの」
「それは初耳だなあ」
 卯吉爺はそう言いながら、酒の肴《さかな》に烏賊《いか》の塩辛を運んできた。
「今度だって紀久ちゃんは、無罪に決定したっていう電報を敬二郎の奴に寄越さねえで、おれに寄越してるんだからなあ。紀久ちゃんはむしろ、敬二郎の奴を嫌ってるんだよ」

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