それじゃ、お嬢さんは敬二郎さんよりも、正勝さんのほうを気に入っているのじゃねえのかな? どうもそうらしいなあ」
爺はそう言いながら、酒を運んできた。
「おれはどっちを好きだか、そんなことは知らねえがな。しかし、敬二郎の奴を好きでねえことだけ、これは確かなことなんだ。もし敬二郎の奴を好きなのなら、今度だっておれのほうさ電報を寄越すわけはねえからなあ」
正勝は上半身をぐっと後ろに引くようにして、炉の火の上に大股《おおまた》を開いた。
「そりゃあ、敬二郎さんよりもお嬢さんは正勝さんを好きなのだよ。それに違いねえとも。それ! 熱いうちに……」
爺はそう言って、燗のできている酒を注《つ》いだ。
「そんなこたあまあ、おりゃあどっちだっていいがなあ」
しかし、正勝の顔にはなにかしら、暗い重々しいものの底から浮かび上がってくる得意の表情が容易に隠し切れなかった。正勝は唇を微笑に歪《ゆが》めながら、熱い燗の酒を続けてぐびりぐびりと飲み干した。爺は炉の火を掻《か》き立てながら、無骨な手で酌を続けるのだった。
「どっちでもいいってこたあねえさ。いまのところお嬢さんに好かれるか好かれねえかっていうこたあ、こりゃあ大問題だぞ。お嬢さんに好かれりゃあ、それでまあ、森谷さまのお婿さまに決まったようなもんだ。森谷さまの財産といったら、こりゃあまた大したもんだ」
「おりゃあ、財産なんかどうだっていいんだ」
「お嬢さんにしてみりゃあ、そりゃあ正勝さんのことを気にするなあもっともな話だよ。牧場のほうも農場のほうも森谷さまと高岡《たかおか》さまと二人で始めて、森谷さまのお嬢さんと高岡さまの坊ちゃんの正勝さんとは兄妹のようにして育ったのを、高岡さまのほうだけが不幸なことになって、正勝さんをお嬢さんのお婿さんにするのかと思ったらそれもしないで、敬二郎さんを連れてくるんだから……」
「紀久ちゃんがおとなしいからさ。紀久ちゃんが自分の気持ちを言い張れば、親父だって無理やりに押しつけたりしやしめえから」
正勝はそしてまた、ぐびりと酒を呷《あお》った。
「お嬢さまがおとなしいからって、牧場を始めるときのことを考えれば……」
「それなんだ。それだよ、卯吉爺さん! おりゃあ森谷の財産を自分のものにしてえと思わねえが、おれの親父ばかりじゃなく、開墾場のほうの何人かの人たちが実に酷《ひど》い目に遭っているんだから、できれば開墾場の人たちが当然自分の土地として牧場のほうから貰《もら》っていい土地ばかりは開墾場の人たちの手に返してやりたいんだ。おれの親父がそう考えていたんだから、親父の気持ちを継いで、おれの手で返してやりたいんだ」
「それは立派な考えだ。いまならもう、お嬢さんの気持ち一つでどうにでもなるんだから、お嬢さんが敬二郎さんよりゃ正勝さんのほうを好きで、正勝さんが森谷さまのお婿さんになられて、たとえ半分でも返してやったら、開墾場の人々がどんなに喜ぶか……」
「それで、おりゃあ、それだから、紀久ちゃんの気持ちをどうしても敬二郎のほうへは靡《なび》かせたくねえんだ。敬二郎の野郎に森谷の財産を奪られてしまえば、それでもう前と同じことなんだから。森谷の親父はまたそれを考えて敬二郎の野郎を婿にしようとしていたんだし」
「しかし、お嬢さまが敬二郎さんに電報を寄越さねえで正勝さんに寄越したのなら、それだけでももうお嬢さまの気持ちははっきりと分かるようだがなあ」
「卯吉爺さん! そりゃあおれにだって、見当も考えもあっての話だがなあ。いまに見てろ、この辺はまるで変わったものになるから。卯吉爺さんなどだって、いまよりはきっとよくなるから。爺さん! 一杯まあ飲め」
正勝はしだいに酔いが回ってきて、爺のほうへぐっと盃《さかずき》を突きつけながら叫ぶような高声で言うのだった。
「これはこれは……」
爺は微笑を崩して盃を受けながら、正勝を煽《あお》りだした。
「そんな風にしてくれりゃあ、村にとっちゃ神さまのようなもんだ。村の人たちのためにでも、ぜひともお婿さんになってもらいてえもんだなあ。村の人たちがよくなりゃあ、おれのほうもすぐよくなるのだし、そりゃあぜひとも……」
「紀久ちゃんの気持ちを、どうかして敬二郎の奴から裂いて……」
その時、入り口の戸が開いて、不意に敬二郎が入ってきた。正勝は急に口を噤《つぐ》んだ。そして、正勝と爺とは顔を見合わせた。
「正勝くんも来てるのか?」
敬二郎は鼻であしらうようにしながら、正勝と向き合いに、炉端の腰掛けへ腰を下ろした。
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第六章
1
片隅の壁に造りつけられてある土間のストーブには、薪《まき》がぴちぴちと跳ねながら真っ赤に燃えていた。敬二郎はストーブのほうへ長靴の両足を伸ばして煙草《たばこ》をふかしながら、次の言葉を躊躇《ちゅうちょ》した。平吾と常三と松吉との三人はストーブに手をかざして、重い沈黙の中に敬二郎の言葉を待った。しかし、敬二郎は煙草を燻《くゆ》らしてはただじっと唇を噛《か》み締めるだけだった。
「とにかく、正勝の野郎は旦那《だんな》が亡くなってからってもの、生意気になってきたことだけは確かだ」
平吾が両手を擦り合わせながら、思い出したように言った。
「それなら本当だ」
松吉が顔を上げて、叫ぶように言った。
「そればかりじゃねえ、あの野郎はなにも仕事をしねえで遊んでばかりいるぞ。そして、旦那の長靴を履いたり、旦那の鞭《むち》を持ち出したり、勝手なことばかりしていやがるよ」
「正勝くんとしちゃ、それぐらいのこと、なんでもないことなんだ」
敬二郎は三人の者が正勝に反感を抱いているのを知って、急に勢いを得てきた。
「なにしろ、正勝くんは大変なことを企《たくら》んでるのだからなあ。実はそれで、きみたち三人に相談してみようと思ったわけなんだがね。しかし、これはほかの人たちにはだれにも知らせたくないことなんだ。ぼくはきみたち三人にだけ打ち明けて、ほかの人たちには絶対秘密にしておきたいと思うんだ」
敬二郎はそこまで言って、言葉を切った。そこへ婆《ばあ》やが紅茶を運んできた。紅茶を啜《すす》りながらふたたび沈黙が続きだした。
「それで、正勝の野郎はどんなことを企んでるのかね?」
しばらくしてから松吉はそう言って、煙管《きせる》に煙草を詰めた。
「正勝くんはこの森谷家の財産を、自分のものにしようとしているのだよ。他人《ひと》から聞いた話だけれど、どうもそうらしい気振りがぼくにも見えるんでね。それできみたちに相談してみるわけなんだよ」
「あの野郎なら、それぐらいのことは企みかねないなあ」
平吾が勢い込んで言った。
「それで、きみたちはどう思うかね」
「どうもこうもねえことじゃありませんがなあ。正勝の野郎をいまのうちに、この牧場から追い出してしめえばいいんですよ。だれがなんと言ったって、いまのところあなたはこの牧場の主人《あるじ》なのだから、あなたがあの野郎を追い出す分にゃあだれも文句はねえはずだ」
「しかし、追い出すといっても、簡単に出ていく男じゃないからなあ」
「あなたがびしびしとやりゃあ、そんなことなんでもねえじゃありませんか。造作のねえことですよ。面倒なときゃあ、正勝の野郎一人ぐれえなら畳んでしめえばいいんだからなあ。叩《たた》き殺して谷底へでも投げ込んでしめえば、それで片づいてしまうんだもの」
「しかし、紀久ちゃんの気持ちが最近ではぼくのほうよりも正勝くんのほうへ傾いているかもしれないのだから、紀久ちゃんが帰ってきて、正勝くんより逆にぼくのほうが追い出されるかもしれないからなあ」
「そんなら、お嬢さまの帰ってこねえうちに、いまのうちにやってしめえばいいですよ。まず試しに、何かあいつのいやがることを言いつけて、無理にでもさせるんだなあ。それで、あいつが言いつけどおりにやらねえんなら、おれたちが黙っていねえから」
「いったい、正勝の野郎は今日は何をしてるんだ? 今日は朝から見えねえじゃねえか?」
松吉が突然、思い出したようにして言った。
「今日は浪岡に乗って、放牧場のほうで鉄砲を撃って歩いていたよ」
「浪岡に乗って?」
敬二郎は驚きの表情で、訊《き》き返した。
「近ごろは正勝の野郎、浪岡にきり乗りませんよ」
「浪岡を自分の乗り馬にするつもりなのかな? 浪岡なら、乗り馬としちゃ最上の馬だからなあ。まったく、この牧場の中でももっとも値段の出ている馬だし、調教を少しつければ、それだけでもう浪岡は貴族階級の乗り馬だよ」
「それを正勝の野郎に勝手にさせておくなんて、そんな馬鹿《ばか》なことはねえ! 敬二郎さん! おれが引っ張ってくるから、あなたからぐっと差し止めなせえよ。それで、あの野郎があなたの言うことを聞かなかったら、そのときゃあおれらが黙ってねえから」
「それじゃ、とにかく差し止めてみよう」
「それじゃ、みんなは厩舎《うまや》の前へ行って、あそこで待っていてくれ。すぐ引っ張ってくるから」
平吾はそう言って長靴をぎゅっぎゅっと鳴らしながら、戸外へ出ていった。
2
平吾は栗毛《くりげ》の馬に乗って、放牧場の枯草の中を一直線に駆けていった。
正勝は浪岡に※[#「足へん+鉋のつくり」、第3水準1−92−34]《だく》を踏ませて、楡《にれ》の木のある斜面を雑木林の谷のほうへ下りてくるところだった。右手には猟銃を持って、手綱は左手で捌《さば》いていた。正勝はそして、木の枝に鳥を探りながら、平吾がすぐその近くへ行くまで知らずにいた。
「正勝《まっか》ちゃんよう!」
平吾は馬の上から声をかけた。
「平さんか?」
正勝は軽い驚きの表情で振り向いた。
「正勝ちゃんに、若旦那がちょっと用事があるそうだで」
「若旦那? 若旦那って、いったいだれのことだえ?」
正勝は頬《ほお》を膨らましながら、高圧的に言った。
「そんな皮肉なことは言うもんじゃねえよ。用事があるんだそうだから、一緒に来てくれよ」
「しかし、おれにはだれのことだか分かんねえなあ。おれらが若旦那って呼ばなきゃならねえ人間が、いまこの牧場にいるのかね。おれには分かんねえ」
「皮肉だなあ。敬二郎さんが用事があるんだってさ」
「平さん! きみはもう敬二郎を旦那にしているのかい?」
「そんなことを言ったって、仕方がないじゃないか?」
「仕方がない? 平さん! きみの親父《おやじ》は内地からはるばると、難儀をしにこんなところまで来たのかい? 子供を牧場の安日当取りにしようと思って、こんなところまで来たのかい? 荒地を他人のために開墾したのかい? そんなつもりでおれの親父について来たのじゃねえと思うがなあ」
「そんなことを言ったって、はじまらないよ」
「どうしてかね? きみの親父の開墾したところはきみの親父の土地で、同時にきみの土地なんだ。なにもその土地を敬二郎に奉って、そのうえ敬二郎を旦那として戴《いただ》かなくてもいい」
「しかし、そんなことを言ったって、開墾はおれらの親父がしたかもしれねえが、大旦那から敬二郎さんに譲られていく土地だもの、おれらが何を言ったところで……」
「そんなことはねえ。森谷の親父はおれの親父まで騙《だま》して、開墾をした人たちから開墾地をみんな取り上げて自分のものにしてしまったのだ。けれども、森谷の親父の死んでしまったいまはだれの土地でもねえのだ。いや! 開墾した人たちの土地なのだ。しかし、このままにしておけばこのまま紀久ちゃんのものになって、紀久ちゃんが敬二郎と結婚してしまえば、それこそ敬二郎のものになってしまうのだ。そこで、紀久ちゃんの手に移らねえうちに、開墾した人たちが自分の手に戻さなくちゃ! 紀久ちゃんが帰ったら、おれは紀久ちゃんに言うつもりだが、紀久ちゃんはそれが分からねえ人じゃねえんだ」
「とにかく、敬二郎さんのところへ行ってくれよ。頼むから」
「いったい、敬二郎の奴《やつ》め、おれになんの用があるんだろう。あの野郎は油断ができねえんだが……」
「なんでも、その浪岡をどこかへ売るらしいなあ」
「
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