こつと檻《おり》の中の熊《くま》のように歩き回った。胸が爛れているばかりでなく、彼の頭の中は火の玉のように激しい憎悪の炎でいっぱいだった。
「おれに何か用かい?」
突然に露台の下に来て、正勝は怒気を含んで大声に言った。敬二郎は驚きの表情で顔を上げた。正勝はその手に鞭《むち》を握っていた。
「用があるから呼んだのだ!」
敬二郎の目は正勝の手の鞭に走った。怒気と恐怖とを含んだ目? 敬二郎は爛々《らんらん》と目を輝かしながら、正勝をじっと見詰めた。
「何の用かね?」
正勝はとんとんと露台へ上がっていった。
「紀久ちゃんを勝手に呼び出したりするのは、よしてくれ!」
敬二郎は激しく心臓が弾んで、言葉が途切れた。
「きみにはいったい、そんなことを言う権利があるのか?」
「権利があるから言うんだ。紀久ちゃんは、ぼくと婚約している女だ。婚約のある女を勝手に呼び出したりするのは、紳士のやるべきことじゃない。今後はよしてくれ」
「おりゃあ紳士じゃねえよ。そんなこたあおれに言わねえで、紀久ちゃんに言ったらいいじゃねえか? きみの女房になる女なら、何だってきみの言うことは聞くだろうから。しかし、どうも困ったことに、紀久ちゃんはおれの言うことばかり聞くんでなあ。これはどうも、きみにそれだけの威厳がないからなんだなあ」
「なにを!」
敬二郎は叫ぶと同時に、傍らの腰掛けを振り上げて正勝に打ってかかっていった。正勝はぱっと身を翻して、鞭をぴしりっと敬二郎の向こう臑《ずね》に打ち込んだ。瞬間、敬二郎の投げつけた腰掛けが正勝の肩に当たって落ちた。
「殴ったなっ!」
「殴りゃあどうしたっ?」
怒鳴りながら、二人は取っ組んでいった。そして、二人は組み付いたままで露台の上を飛び回った。最後に、正勝はとうとう下に組み敷かれた。
「何をなすっているんですか?」
紀久子が出てきて、驚きの目を瞠《みは》りながらそこに立った。
「およしなさいよ」
紀久子は敬二郎の肩に手をかけて引《ひ》っ剥《ぱ》がした。瞬間、正勝は自分の身体《からだ》から離れていく敬二郎の鳩尾《みぞおち》に突きの一撃を当てた。急所を突かれて、敬二郎は顔を顰《しか》めながら、まったく闘争力を失った。
「態《ざま》ったらねえ! 馬鹿野郎《ばかやろう》め!」
正勝は怒鳴りながら、鞭を拾って悠々と露台を下りていった。
(酷いわ! 酷いわ! 正勝もあんまりだわ!)
紀久子はそう心の中に呟《つぶや》きながらも、しかしなにも言うことはできなかった。彼女は唇を噛《か》みながら、憎悪の目をもってじっと正勝の後姿を見送った。そして、正勝の姿が物陰に消えてから、紀久子は急所の重苦しい痛みに悩んでいる敬二郎を静かに部屋の中へ労《いたわ》り入れた。
2
紀久子はいつまでも黙りつづけた。
(許してください。敬さん! わたしが悪いんです。許してください。わたしがあなただけを愛しているってことを、いまは言うことができないんです。許してください)
紀久子はそう心の中に呟きながら、黙りつづけていた。
窓の外は暗鬱な曇天がしだいに暗く灰色を帯びて、ストーブが真っ赤に焼けてきた。真っ赤なストーブを前にして、敬二郎も唇を噛み締めながら言葉を切った。重苦しい沈黙が物哀《ものがな》しい空気を孕《はら》んで、二人の間へ割り込んできた。
「ぼくは紀久ちゃんの本当の気持ちを知りたいのだ。ぼくは紀久ちゃんの愛を失うくらいなら……」
「敬さん!」
紀久子はハンカチで目を押さえて咽《むせ》びだした。
「ぼくは本当に、紀久ちゃんの愛を失うくらいなら、死んでしまったほうがいいのだ」
「我慢していてください。きっと、きっと、いまにきっと、どうにかなりますわ。わたしの本当の気持ちの分かるときが来ますわ。それまで、じっと我慢していてちょうだい」
「いくらでも我慢をするがね。しかし、紀久ちゃんはぼくの言うことよりも、正勝のほうの言うことを聞くのだし、さっきだって、ぼくが正勝の奴《やつ》を組み伏せているのに、紀久ちゃんが出てきて正勝の奴に加勢をするものだから……」
「敬さん! わたしの本当の気持ちを分かってちょうだい。わたし……わたし……わたしと敬さんとのことは、わたしたち二人だけで固く信じ合っていればいいのだわ。わたしの本当に愛しているのは敬さんだけよ」
「それなら、これからは正勝の奴からどんなことを言ってきても、正勝の言うことだけは聞かないでくれ。ぼくはあなたの愛を信じたいのだ。正勝の言うことを聞かないでくれ」
「わたしどうしたらいいのかしら? それは、わたしにも口惜《くや》しいんだけれど、どうにもならないのよ。あんな男が、本当に大きな顔をして生きていられるなんて……」
だれかがその時、こつこつとドアを叩《たた》いた。
「婆《ばあ》や? お入り」
婆やは腰を屈《かが》めながら入ってきた。その手には、白樺《しらかば》の皮を握っていた。二人の目は驚異の表情を湛《たた》えて、その自樺の皮の上に走った。
「正勝さんからって……」
婆やは気兼ねらしく低声《こごえ》に言って、紀久子の顔色を覗《のぞ》いた。紀久子は真っ青になってわなわなと顫えていた。彼女は顫えながら、泣きだしそうな顔をして静かに手を出した。
「正勝はまた、吾助茶屋に行っているのでしょう」
「いったいまた、何を言ってきたんだ?」
敬二郎は怒鳴るように言って、横から白樺の皮をひったくった。
「また? なんという失敬な奴だ! 行く必要があるものか」
敬二郎は胸を激しく波打たせながら、怒鳴った。
「困ってしまうわ。婆や? いますぐ行くからと言って、帰らしておくれ」
「まいりますか?」
婆やはそう念を押して、怪訝《けげん》そうな顔をしながら出ていった。
「紀久ちゃんはそれじゃ、行くんだね?」
敬二郎は顔を引き歪《ゆが》めながら唇を噛んだ。
「でも、手紙には来いと書いてあるのでしょう?」
「――ただいま吾助茶屋にて盃《さかずき》を重ねおり候。しかし、あなたなしではまったくつまらなく存じ候。ともに飲み、ともに歌って踊りたく候間、さっそくにもお越しくだされたく候――」
「やっぱりね」
紀久子はそう言って、深い溜息を吐《つ》いた。
「行くことがあるものか!」
敬二郎は怒鳴るように言って、白樺の皮をストーブの中に投げ込んだ。しかし、紀久子は真っ青な顔をして、微《かす》かにわななきながら腰を上げた。敬二郎の目は驚異と哀愁との表情を含んで輝きだした。
「紀久ちゃんは行くつもりなのか?」
「…………」
「紀久ちゃん! 頼むから行かないでくれ。行かないでくれ」
「…………」
「紀久ちゃんが奴の言うことを聞かないからって、奴が何かしたらぼくがどうにでも始末をつける」
しかし、紀久子はじっと空間を見詰めて、夢遊病者のようにふらふらと静かに戸口のほうへ歩いていった。
「紀久ちゃん! お願いする。頼むから行かないでくれ」
「…………」
「紀久ちゃん! ぼくはもう、本当に生きてはいられない」
しかし、紀久子はもう魂の脱殻《ぬけがら》のように、黙ってふらふらと静かに歩いていった。敬二郎が抱き止めようとしても、無感情な機械人間のように静かにその手から脱《ぬ》けて、ふらふらと歩いていった。敬二郎は※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》くようにして悶《もだ》え悩みながらただその後を追うだけで、もはや機械のようにして動いている紀久子を抱き止めようとはしなかった。
3
紀久子はそして、無感情な機械人間のように吾助茶屋の中へふらふらと入っていった。
「おっ! 紀久ちゃんか? 来たね」
正勝がぐっと立ち上がって言った。
「お嬢さまですか? 暗いところをよくまあ。炉のほうへ、さあ寄ってくだせえ」
開墾地の喜代治が頭を下げながら言った。しかし、紀久子はそれには答えずに、魂の脱殼のようにただふらふらと正勝のほうへ寄っていった。開墾地の四、五人ばかりの目は、驚異の表情をもっていっせいにその姿を追った。
「紀久ちゃん! 一緒に飲もう」
正勝は大きな椀《わん》に酒を注《つ》いで紀久子のほうへぐっと差し出した。紀久子はすると、無表情のままでひと息に飲んだ。正勝も怪訝そうな顔表情を含んで、じっと紀久子を見た。
「紀久ちゃん! 一緒に踊ろうか?」
正勝はそう言うなり紀久子の肩に手をかけて、足を上げ手を振りながら踊りだした。開墾地の人たちはでたらめな歌を歌いながら、徳利や盃を叩き鳴らした。
「お嬢さまは、いよいよ気が変だぞ」
喜代治は徳利を叩きながら、傍らの与三|爺《じい》の耳へそっと囁《ささや》いた。
「おれも、さっきからそう思って見てるところだ」
その時、紀久子がばったりと倒れた。
「どうした? 紀久ちゃん! どうした?」
正勝は狼狽《ろうばい》しながら屈み込んだ。
「なんでもないの」
「顔色が悪い」
「なんでもないのよ」
紀久子はそう言って、すぐ起き上がった。
「しかし、ばかに顔色が悪い。帰ろう」
「なんでもないのだけど……」
「どこが悪いんだ。真っ青だよ。帰ろう」
正勝は狼狽しながら紀久子の肩に手をかけて、静かにそこを出ていった。
4
奥の洋室まで、正勝は紀久子について入っていった。
「あらっ!」
紀久子は驚きの声を上げて戸口に立った。
ストーブが赤々と燃えていて、その傍《そば》に敬二郎がばったりと倒れていた。胸のところから血が流れて、ストーブと熊の皮の敷物との間の敷板が真っ赤な血溜《ちだま》りになっていた。そして、その手には黒いピストルを固く握っていた。
「死んでいるじゃないか? 自殺をしたんだな? 馬鹿なっ!」
正勝はそう言いながら、ストーブのほうへ寄っていった。ストーブの傍の小卓の上には、何か手紙のようなものが書き残されてあった。紀久子も黙ってそこへ寄っていった。
「書置きだな?」
紀久子は黙って、ただその胸を顫わせながら正勝と一緒にその手紙を覗き込んだ。
最愛の紀久子さん!
永劫《えいごう》の結合と深遠の愛を誓いながら、流星のように別れていかねばならないことを、わたしは深く深く悲しみます。あなたの愛だけに生きているわたしとしては、もはやこれも仕方のないことです。いまにして、わたしはわたしたちの愛が、開墾地の人たちの血と肉とのうえに建てられてあったことをはっきりと知りました。わたしたちはその血の池のなかに、その肉の山に、永劫の愛を求めようとしたのです。しかし、それは決してあなたの罪でもなく、わたしの責任でもありません。あなたの父上の負うべき一切のものを負わされて、わたしたちの果敢《はか》ない宿命の愛が誤れる第一歩を踏み出したのでした。わたしたちがもしも疾《と》くにこのことに気がついて、わたしたち自身の世界に永劫の結合と深遠の愛を誓ったのであったら、かくも悲惨な袂別《べいべつ》を告げることはなかったでしょう。しかし、わたしたちは愚かにも、開墾地の人たちの血と肉と魂とのうえにその愛を築こうとしたのでした。そしてわたしたちは、あなたの父上の負うべき責めと復讐《ふくしゅう》とを、わたしたちの愛のうえに受けたのです。わたしたちがあなたの父上の遺産に執着するかぎり、当然の帰結だったと思います。そしてなお、わたしがあなたから去ってののちも、もしあなたがその呪《のろ》われている財産に執着するなら、あなたの今後の愛も決して幸福ではなかろうと思います。
最愛の紀久子さん!
わたしは最後の言葉として、あなたの今後の愛が、あなた自身の世界に建てられることを希望します。森谷家の遺産はわたしが継ぐべきものでもなく、正勝が継ぐべきものでもないのです。当然、それを受け取るべき人が沢山いるはずです。あなたはわたしがそれを継ぎそうに見えた間はわたしに愛を繋《つな》ぎ、正勝がそれを奪還しかけると急に正勝へ愛を移していきましたが、それは間違いです。財産について回るあなたの愛は間違いです。財産は当然受け取るべき人々にそれを渡し、またそして、正勝との誤
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