。しかし、蟇口の中には二、三十円きり入っていなかった。正勝はすぐ立ち上がって、土間の隅から焚《た》きつけにする白樺《しらかば》の皮を持ってきた。
「とっつぁん! 硯箱《すずりばこ》を貸してくんなよ」
 そして、正勝はテーブルの前に席をとった。
「正勝さん! おれも一つお願いがあるのでがすが……」
 与三爺《よさじい》が低声《こごえ》に言いながら寄っていった。
「この夏、はあ馬を殺してしまって、なんともかんとも困ってるのでがすが、おれもできれば百円ばかり貸していただきてえもんで……」
「百円? 金はいいが、馬を買うのなら馬でやってもいいが……」
「やっぱり、金で貸していただいて……」
「それじゃ、いまここへ持ってこさせるから」
 吾助爺がそこへ硯箱を持ってきた。
「爺さん? 五、六本ばかり熱くしてくれ。それから、みんなの分を何かご馳走《ちそう》を拵《こさ》えてくれよ」
「それじゃ、鶏《とり》でも潰《つぶ》すべえかい?」
「鶏でいい」
 正勝はそして、筆に墨を含ませた。
「正勝さん! おれのとこでもね、雑穀問屋から借金をしてるのですがね。それを今年じゅうに是が非でも返せと言うのでがすがね。雑穀問屋では雑穀で返させる算段なんですが、なにしろ今年は穀類の出来が悪いんでね。穀類で借金を返してしまえば、おれらはもうなにも食うものがねえでがすがね」
 初三郎爺《はつさぶろうじい》がよろよろと立ってきて言った。
「その借金というのは、いったい幾ら借りてるのかね?」
「七十円だけ借りたのですが、利子がついて百円近くになってるのでがすがね」
「それならおれが払ってやるから、心配しなくてもいい」
 正勝は気安く言って、ふたたび筆に墨を含めた。
「正勝さん!」
 長松爺《ちょうまつじい》が首を傾《かし》げながら、怪訝《けげん》そうに言った。
「正勝さんがそうして手紙をやると、森谷のお嬢さまは金を寄越すのかね? 冗談でなく、本当に寄越すのかね? そんな大金をよ?」
「寄越すから手紙をやるんじゃないか。寄越すか寄越さねえか当てのねえところへ、いくらおれだって手紙なんかやらねえさ。論より証拠だ。持ってくるかこねえか、ここにいて見てればいいや」
「大したもんだなあ。手紙一本で森谷のお嬢さまが金を届けて寄越すなんて、夢のような話じゃねえか」
「お嬢さまは正勝さんのほうへ、夢中になっているんだべよ」
 喜代治が言った。
「夢中になっているかどうか知らねえが、おれが手紙をやれば紀久ちゃんは自分で持ってきてくれる。紀久ちゃんはもう、おれの言うことならなんだって聞くんだから」
「それじゃ、お嬢さまは敬二郎さんがいやになって、正勝さんと一緒になるつもりでねえのかね?」
 彦助爺が言った。
「そんなことはおれの知ったことじゃねえ。論より証拠だ、とにかく、持ってくるか持ってこねえか、見ていれば分かるさ」
「いったい、その手紙っての、どんな風に書くんだね?」
 喜代治がそう言ってテーブルの上の白樺の皮を覗き込むと、開墾地の人たちはいっせいに炉端を離れて、テーブルの周囲を囲んだ。
「手紙か? 普通の手紙だよ。まず――拝啓と書いてな」
 正勝はその文句を言いながら顫《ふる》える指先を固く握り締めて、白樺の皮の上へ無造作に書きはじめた。
「それから――ただいま吾助茶屋にて金子入用のこと相起こり申し候――ということにして。そして――はなはだ恐縮ながら――とまあ、少し敬意を表しておいて、そして――さっそく五百円ばかりご用意なされ、おまえさまご自身にてお越しくだされたく候――。爺さん! これをだれかに持たせてやってくれないか?」
 正勝はそう言って、吾助爺のほうへ声をかけた。吾助爺はすると、盆に徳利を載せて炉端のテーブルへ寄ってきた。正勝は白樺の皮をくるくるとするめ[#「するめ」に傍点]のように巻いて爺に渡した。
「それじゃ、ひとつみんなで飲もうじゃねえか。紀久ちゃんが金を持ってくるかこねえか、酒でも飲みながら待ってみてくれよ」
 正勝はそう言って、盃《さかずき》に酒を注《つ》いで回った。
「正勝さん! それじゃ遠慮なく頂きますが、この酒はまあ前祝いのようなもんでがすね」
 喜代治爺は微笑を含みながら言って、盃を取った。

       4

 開墾地の人たちは茶呑茶碗《ちゃのみぢゃわん》で、酒をぐびりぐびりと呷《あお》った。彼らはそれですぐ酔っ払った。酷《ひど》く酔いが回ってくると、彼らは立ち上がって踊りだした。そして、徳利を叩《たた》き、卓を叩いて歌いだした。
 突然その時、戸口が開いた。彼らは驚きをもって戸口のほうを振り向いた。戸口からは、紀久子が静かに入ってきた。
「紀久ちゃんか?」
 正勝は微笑を含んで立ち上がった。開墾地の人たちは急に黙りだした。紀久子は羞恥《しゅうち》の表情を含んで顔を赤らめながら、顔を伏せるようにして静かに正勝のほうへ寄っていった。開墾地の人々は驚きの目を瞠って、ただじっと紀久子の姿を見詰めた。
「金を持ってきてくれたかい?」
「持ってきたわ」
 紀久子はそう言って、正勝に小さな包みを渡した。正勝はすると、煙草《たばこ》を横銜《よこぐわ》えに銜えながらその包みを解いた。十円紙幣ばかりだった。
「稲吉さん! それじゃ百五十円」
 正勝はそう言って、無造作に百五十円を数えた。稲吉爺は幾度も幾度もお辞儀をして、地面を舐《な》めるほど腰を屈《かが》めながら正勝のほうへ寄っていった。初三郎爺や与三爺もお辞儀をしては腰を屈めながら、正勝のほうへ寄っていった。正勝は煙草でもくれるようにして、その金を渡した。
「初三郎爺さんと与三爺さんは、百円ずつだったね?」
「正勝さん! おれらは本当に、あなたさまを神さまのように思いますよ」
 彼らはそう言って、紙幣を押しいただいた。
「正勝さん! おれらにも少し貸してくだせえましよ。おれらこれ、貧乏で貧乏で……」
 喜代治らがそう言って、頭を下げながら正勝のほうへ寄っていった。正勝は黙って彼らを見た。それから、その目を紀久子のほうへ移した。
「紀久ちゃん! 残ってる分を、喜代治さんらに上げてもいいだろう?」
「正勝ちゃんのいいようにしたらいいわ」
 紀久子は顔を上げて、微笑を含みながら言った。
「それじゃ……」
 正勝はそう言って、残っている紙幣を五枚ずつ数えて、鼻紙でもやるようにして彼らに渡した。
「正勝さん! おれらは死んでもあなたのことは忘れませんよ」
「そんなことはまあいいから、飲もうじゃないか?」
「あなたがお嬢さまと一緒になって森谷さまの旦那さまになられたら、おれらは自分の生命《いのち》を投げ出してもあなたのためになるようなことをいたしますよ」
「飲もうじゃないか。紀久ちゃん! あんたも飲めよ」
 正勝はそう言って紀久子にも盃を渡した。紀久子は微笑を含んで素直に盃を取った。開墾地の人たちはまたじっと驚きの目でそれを見た。紀久子はぐびりと盃を干した。
「わたしもう、これで帰ってもいいでしょ?」
 紀久子は盃を置きながら言った。
「一緒に帰るから待てよ」
「平吾が外で待っているのよ」
「それじゃ、すぐ帰ろうか? 紀久ちゃん! いまここでみんなの踊りを見せてもらったんだがね。紀久ちゃんも踊って見せないか?」
「わたしの踊りなんか駄目だわ。それに着物がこれでは……」
「構わないさ。簡単でいいから、何か踊って見せてくれよ」
「できないんだけど……」
 紀久子は微笑を含んでそう言いながらも、手を振り足を上げながら静かに踊りだした。開墾地の人たちは何事も忘れて、呆気に取られてそれを眺めていた。彼らは夢を見るようにして、そこに展開された思いがけぬ空気に驚異と喜悦との目を瞠っているのだった。
「これでもういいでしょう?」
 紀久子は恥ずかしくてならないように、顔を真っ赤にして言った。
「ありがとう! それじゃ、帰ろうか?」
「帰りましょう。平吾を寒いところに待たしておいちゃ、かわいそうだから」
 正勝と紀久子とは揃《そろ》って席を立った。
「正勝さん! おれらは本当に、あなたさまを神さまのように思っているでがすよ」
「お嬢さま! あなたさまも、ぜひとも正勝さんと一緒になってくだせえましよ。おれらのお願いですから」
 開墾地の人たちはそんなことを言いながら、正勝と紀久子とを戸口へ送っていった。

       5

 開墾地の人たちは炉端へ戻ると、互いにその赤い顔を見合わせた。
「どうも、お嬢さまは少し気が変になっているようじゃねえかな?」
 喜代治が低声に言った。
「それさよ。いくらなんでも、森谷家のお嬢さまが正勝の手紙一本で大金を持って駆けつけてきたり……」
「酒を飲んで踊りを踊るなんて、気がどうかしていなけりゃ……」
「正勝さんが偉いからだよ。それで、正勝さんの言うことなら、お嬢さまはなんでも聞くのだよ」
 吾助爺がぼっそりと言った。
「しかし、正勝さんも少し気がどうかしているのじゃないかなあ。理由《わけ》もなく他人さ大金を分けてくれたりしてさ」
 与三爺が目を瞠りながら言った。
「気が変になったのじゃなくて、おれらを騙《だま》すつもりじゃねえのか? 金をくれておいて、何か問題でも起きたときにおれたちを味方にするとかなんとか……」
「そんなことはねえ。お嬢さまは自分の親御は殺されるし、自分は過って他人を殺したので、気が変になったのさ。正勝さんだって、妹があんなことになったんだから、やっぱり気が少しどうかしたんだよ」
 初三郎爺が水洟《みずばな》を押し拭いながら言った。
「どうも、少し変だなあ。正勝さんと紀久子さんとは、自分たちは一緒になりてえんだが、親父《おやじ》さんの代に、はあ、敬二郎さんという人が約束になっているので、いまさらそれができねえもんだから、敬二郎さんを殺してしまうようなことでも考えているんじゃねえのか? それで、おれたちさ金をくれておいて、おれたちを味方にするつもりじゃねえのかな?」
 喜代治は首を傾《かし》げながら、心配そうに言った。
「それさなあ?」
 彼らはそう言って顔を見合わせた。
[#改ページ]

   第九章

       1

 憂鬱《ゆううつ》な曇天が、刺すような冷気を含んで広がっていた。しかし、敬二郎は火の気のないコンクリートの露台に出て、激しい憎悪と不安と憂鬱とに胸を爛《ただ》らしながら正勝の来るのを待っていた。
(いったい、紀久ちゃんはおれと正勝との、どっちを愛しているのだろう?)
 敬二郎はそれを考えると、じっとしてはいられなくなってくるのだった。紀久子が正勝の命のままに動いて、吾助茶屋まで金を届けに行ったことを聞いてからというもの、敬二郎の不安と憂鬱とがなおひとしお激しくなってきた。同時に、正勝に対する憎悪が敬二郎の頭には火の車のように駆け巡っていた。五臓六腑《ごぞうろっぷ》の煮え繰り返るような焦燥に駆られて、敬二郎は夜もろくろく眠ることができなかった。その不眠の焦燥がまた彼の神経をなおも酷《ひど》く衰弱させて、さらに激しい憂鬱と不安との渦巻きの中に追い込んだ。皮膚と筋肉との間を痛痒《いたがゆ》い幾百の虫が駆け巡っているような憂鬱感だった。敬二郎にとっては、もはや生命《いのち》を懸けての決心を持つべきときだった。
(紀久ちゃんを失うことは、同時にまた森谷家の相続権をも失うことだ。紀久ちゃんと森谷家の相続権と、この二つを失ってしまったら、自分にはいったい何が残るだろう? 何物もないではないか?)
 敬二郎はそれを考えて、憂鬱な溜息《ためいき》を繰り返さずにはいられなかった。
(あらゆるものを失って惨めな姿で生きているくらいなら、いっそのこと死んでしまったほうがいいのだ)
 あらゆるものを失ったとき、人間は勇敢になることもできれば捨て鉢になることもできる。
(正勝に会って最後の談判をしてみよう。それと同時に、紀久ちゃんの気持ちも分かるに相違ない。生か? 死か? それからだ)
 敬二郎は固い決心をもって胸を顫《ふる》わせながら、正勝の来るのを待った。彼は顔を伏せて、露台の上をこつ
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