動悸を打つ音、とたんに入口のドアが静かに開いて、影が現れた。
 紀久子は無我夢中に、ぱっと薄暗い光の中に起き上がった。彼女の心臓は破れるほど激しく動悸を打ちだした。彼女は叫ぼうとして声が出なかった。叫ぼうとする身構えをもって、彼女はただわなわなと全身を顫わしていた。
 黒い姿は静かに部屋の中へ進んできた。静かに――抜き足差し足で――煙か何かのように――ベッドのほうへ近づいた。紀久子は叫ぼうとする身構えで目を瞠り、唇を極度に顫わせながらじっとその黒い姿を見詰めていた。
 黒い姿はすると、右手を上げて、それを紀久子のほうへ差し伸ばしながら横に振った。黙っていろということの合図らしかった。しかし、紀久子は叫ぼうとするその身構えから、姿勢をさえ崩すことができなかった。彼女の全身の神経は恐怖にわなわなと戦慄《せんりつ》しながらも、針金のように固くなってしまっているのだった。
 黒い姿は二つのベッドの中間に立ち止まって紀久子のほうへ向き直り、帽子を取った。そして、その顔を薄い電灯の光線に翳《かざ》した。正勝だった。
 紀久子は正勝の顔を見ると、打ちのめされたようにしてベッドの上にくずおれた。そして
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