になるんだもの、出歩かないで奥のほうへでも引っ込んでいろよ。紀久ちゃん!」
 正勝は蟇口をポケットの中へ押し込みながら言った。
「大丈夫よ」
 紀久子はそう言って微笑を含んだ。正勝は馬腹にぐっと拍車を入れて、傾斜地を飛び下りていった。紀久子はそれを馬の上から見送った。
(敬二郎さん! わたしを許してね。わたし、正勝になんか決して心を許してないのよ。わたし、あの人が怖いだけなのだわ。逆らったら、あの人はどんなことをするか分からないから)
 紀久子はそう心の中に呟いた。そして、彼女の胸はしだいに激しく疼《うず》いてきた。彼女の両の目は、いつの間にか熱く潤んできていた。
(敬二郎さん! 敬二郎さん! あなただけよ。敬二郎さん! あなただけのわたしなのよ。いまになんとかなるわ。それまで許していてね)
 紀久子は服の袖《そで》で目を押さえながら、心の中に叫んだ。そして、彼女は傾斜地の上のほうへ目を移した。傾斜地をこっちへ向けて、敬二郎の馬が静かに静かに歩いていた。
(敬さん!)
 紀久子は心の中に叫んで、馬腹へぐっと拍車を入れた。馬は傾斜地の上へ向けて飛んだ。紀久子は大声に泣いてぶっつけたいよう
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