来たか? 婆や! お嬢さまの着物を持ってこう」
「えっ」
「何を婆やは魂消《たまげ》てるんだい? お嬢さまの着物を持ってきてあげろ。外套《がいとう》でもなんでもいい」
 正勝が叫ぶように言うと、婆やはまた腰を引くようにして奥へ入っていった。ふたたび重苦しい沈黙が割り込んできた。ストーブの中に薪がぴんぴんと跳ねているだけだった。
 正勝は、その重苦しい沈黙の空気の中に堪《こら》えていることができない気がした。正勝は沈黙を破るために言った。
「お嬢さま! なにも心配することなんかありませんよ」
 正勝はストーブにぐっと手を翳《かざ》しながら言うのだった。
「蔦はおれの妹だげっとも、それとこれとは別問題だし、あなたの場合は立派に正当防衛というもんだから」
 しかし、紀久子は黙りつづけていた。
 そこへ、婆やが紀久子の外套を持って戻ってきた。
「お嬢さまの着物、どこにあるんだか、一人で奥へ行くのもいやだし……」
 婆やがあたふたと土間へ下りてきながら言った。
「外套のほうがいい」
 正勝が大声に言った。
「肩のところへ血がついているようだから、警察が来るまでやはりこの寝巻を着ていたほうがいいだろう」
「それはそうだなあ」
 牧夫の一人が、紀久子の肩のところへ目をやりながら言った。婆やは紀久子の後ろから外套を覆いかけて、そのまま牧夫たちの後ろに顫えながら立ち尽くした。
「婆やも前さ出て、当たったらいいじゃねえか?」
 正勝は何事かを言っていなければ、耐えられない気持ちだった。
「お嬢さま! 本当になにも心配することなんかねえよ。あなたのは正当防衛なんだから」
「お嬢さまからすれば、親御の仇《かたき》でもあるし……」
 牧夫の一人は言った。
「親の仇なんてこたあいまの社会では通用しねえが、とにかく正当防衛だけは立派に成り立つのだから……」
「夜明けももう間近えべから、駐在所まで行ってくっかな?」
「明るくなってからでいい」
 正勝は鋭く遮った。
「こういう事件というものは時間が経《た》てば経つほど、当事者の利益なんだ。お嬢さまの気も落ち着かねえうちに警察から来られたんじゃ、とんだ馬鹿《ばか》も見ねえとも限らねえからなあ。お嬢さまがすっかり心を落ち着けたところで初めて警察から来てもらって、そん時の具合を間違いなく申し立てても遅くねえ」
「それはそうだなあ」
「お嬢さま! なにも心配はねえ。場合によっちゃあ、駐在所の巡査の正当防衛という報告だけで、警察本署のほうからなんざあ来るかどうか分からねえ。東京付近だと裁判所からまで来るそうだども、この辺じゃ警察の本署からとなりゃあ大変だからなあ。来てみて、まあ部長詰所から来るぐれえのもんだべど。そしてまあ、巡査部長の報告で、紀久ちゃんが裁判所へ呼ばれると同時に、おれたちもまあ証人に呼ばれんだべが、正当防衛ってことですぐ済むさ。泊められたって、調べがつくまでほんの三、四日のもんだべど」
 正勝はほとんど一人で喋《しゃべ》りつづけた。

       5

 陽《ひ》が輝きだすとガラス屑《くず》のような霜柱がかさかさと崩れて、黒土がべたべたと濡《ぬ》れていった。陽がその上にぎらぎらと映った。
 市街地の駐在巡査が黒土の庭へ駄馬を乗り入れて、コンクリートの露台の近くに寄ってきた。牧夫たちは露台のところに立って巡査を迎えた。巡査は馬の上から牧夫たちに言った。
「蔦代っていう娘は主人たちの部屋へ、どこから入ったらしいか分からねえかね?」
「入ったのはこの階段を上って、ここから……」
 牧夫の一人が前へ出ながら言った。
「足跡か何か残っていないかな?」
「なにしろ、おれらが鉄砲の音を聞きつけて土足でもってどかどかと駆け込んだもんだから、どれがだれの足跡だか、はあもう、てんで分かんなくなってしまって……」
 正勝が巡査の顔を見上げながら言った。
「それで、お嬢さんはどこにいるんだね?」
「お嬢さまは中にいますから……」
 正勝はそう言って、巡査の乗っている馬の轡《くつわ》を捉えた。巡査は手綱を放《ほう》って、馬から下りた。そして、長靴のままで露台へ上がっていった。
「それから済まねえが、その馬に飼葉をやっておいてくれねえかなあ。近所の馬を借りてきたんだから……」
 巡査は露台の上から、思い出したようにして言った。
「はあ!」
 正勝はそう言いながらその馬を牧夫の一人に渡すと、露台に駆け上がって巡査と一緒に部屋の中に入った。
 部屋の真ん中にはストーブが燃えていた。紀久子は真っ青な顔をして婆やに付き添われながら、そのストーブの前に腰を下ろしていた。
「紀久ちゃん! 警察が検《しら》べにおいでくださったから、なんでも本当のことを申し上げて……」
 正勝はそう言って、巡査と紀久子とを引き合わせた。紀久子は静かに腰を上げて
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