喜平のその肉の仮面を肉づきのままに引き剥《は》ぐべく、爪《つめ》を研ぎ澄ましているのだった。
 喜平はじっと正勝を見詰めつづけ、正勝がもし何か喚《わめ》きだしたら、その細長いしなやかな鞭をもってすぐにも殴りつけようとしているのだった。火のような昂奮《こうふん》をもって、喜平は第二の爆発の動機を待ち構えているのだった。
 狂暴な嵐の中の瞬間的な静寂のような沈黙だった。偶然に均衡を得た一つの機構が、わずかの間をどうにか崩れずにいるような、瞬間的静止状態であった。なお大きく恐ろしく爆発しようとして……。そして二人の間には沈黙が続いた。

 隣室の沈黙につれ、紀久子はその身体《からだ》を婆《ばあ》やの手に委《まか》すようにした。婆やは紀久子の肩に手をかけて、ベッドの上へ静かに寝かした。そして、紀久子はベッドの上でじっと目を閉じたが、恐怖の嵐がその身内を駆け巡っていた。
(正勝さんはあのことを言ってしまうのだわ。あの秘密を言おうとしているのだわ。あの秘密を……)
 紀久子は心の中に呟《つぶや》いた。彼女は渦巻き吹き捲《まく》る恐怖の嵐のために、胸が裂けてしまいそうだった。そして、彼女はじっと目を閉じていると、隣室で父の喜平と対峙《たいじ》している正勝がその口辺をもぐもぐさせながら、いまにも叫び出そうとしているさまがはっきりと見えるような気がするのだった。そして、その言葉がいまにも自分の身内へ飛び込んできて、自分の心臓を滅茶《めちゃ》めちゃに噛み荒らすような気がするのだった。紀久子の心臓は熱病患者のように燃えながら顫えた。
(正勝さんがあの秘密を明かしたら、わたしはどうなるのだろう?)
 紀久子はそう思うと、恐ろしいことの来ないうちに消えてしまいたいような気がするのだった。
 しかし、もうどうにもならないことだった。父の喜平と正勝との対峙の場所へ飛び出して、正勝の口を塞《ふさ》ぐことのできないのはもちろんだったし、正勝が一度その口にした秘密という言葉に対する父の追及を、いまさら制止することもできなかった。紀久子はただじーっとして、恐ろしい現実が波紋を描いて広がるのを待っているよりほかには仕方がなかった。紀久子のただ一つの希望は、その不気味な沈黙が沈黙のままに終わってしまうことだけであった。

 沈黙が不気味のままに続きだすと、喜平は書卓の上へがたりと鞭を投げ出して荒々しく煙草《たばこ》に火を点《つ》けながら、目を三角にして怒鳴った。
「さあ! 言え!」
 しかし、正勝は顔を上げなかった。
「言え! その秘密ってのを言え!」
 喜平は怒鳴りつづけ、追及しつづけた。
「なんだって黙っていやがるんだ! さあ! 言えったら言え!」
 正勝はやはり顔を上げなかった。
「言えったら言え! 秘密の何のと言いやがって! さあ! 言え!」
 喜平はまた鞭を取り上げて、書卓の上をぴしぴしと打ちつづけながら叫んだ。
「秘密の何のと言やあ、馬鹿野郎《ばかやろう》、驚くとでも思っていやがるのか? てめえらに威《おど》かされてどうなるんだ? 馬鹿野郎め、何が秘密だ?」
 喜平はそこで、書卓を強く打ち据えた。
「それじゃ、秘密なんて、ないというんですか?」
 正勝はぐいと顔を上げて、叫ぶように言った。
「なんだって!」
「人殺しのようなことをしていながら、そんでもなにも秘密がねえなんて……」
「人殺し? この野郎め! 黙っていりゃ勝手なことを吐《ぬ》かしやがって、おれがいつそんな人殺しのようなことをした?」
「おれらのお袋がだれのために死んだか、何のために死んだか、おれらが知らねえとでも思っているのか?」
「そんなことがおれと何の関係があるんだ?」
「関係がねえ? 関係がねえと思ってんなら教えてやらあ」
「馬鹿野郎! それをおれに教えるっていうのか? てめえのお袋は、てめえの親父《おやじ》が死んでから生活に困って、自殺をしたんだぞ。そんでてめえらは、干乾《ひぼ》しになってしまうところだったんだ。その干乾しになってしまうのを、いったいだれが助けてやったと思ってんだ?」
「それじゃいったい、おれらのお袋を自殺させたのはだれなんだ」
「そんなことをおれに訊《き》いたって分かるか?」
「それじゃ教えてやろう。おれらのお袋は、きさま! きさまのために自殺したんだぞ」
「なんと? おれのために自殺をしたって?」
 喜平は驚異の目を瞠《みは》りながら叫んだ。
「黙っていりゃ吐かしやがる?」
 喜平はそして、いまにも掴《つか》みかかろうとするような形相さえ示した。しかし、正勝は喜平の顔に向けてぐっと目を据えたまま、身動《みじろ》ぎもしなかった。喜平は鞭を取って、ぴしりと強く書卓の上を打っただけだった。
「馬鹿野郎め、育てられた恩を忘れやがって!」
「大変な恩だ。こっちから言わせりゃあ
前へ 次へ
全42ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
佐左木 俊郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング