出ていけ!」
「それじゃあひとつ、出ていかれますように、お金を少し都合していただきてえんですが……」
「金? そんなことわしの知ったことか? てめえのような者に金を出してやる理由なんかありゃしねえ!」
「旦那! 昔のことを少し考えてみてくだせえ」
「なにを!」
「旦那は、おれがなにも知らねえと思っているのかね?」
「何を吐《ぬ》かしやがるんだ? たわけめ!」
「おれはこれでも、旦那一家の秘密を握っているんですからなあ」
「秘密? たわけめ! なんの秘密だ? わしを威《おど》かして金を出させようというのか? このたわけ者め!」
喜平は立ち上がって鞭を振り上げた。正勝は肘《ひじ》で顔を掩《おお》った。鞭はぴゅっと空間で鳴った。
8
紀久子は、ばたりと床の上にくずおれた。
(あらっ! 秘密だなんて、あの人はあのことを言ってしまうのだわ)
彼女はそれっきりで、もうなにも分からなくなった。
9
紀久子は自分のベッドの上で横たわっているのに気がついた。
「お嬢さま! お嬢さま! お気づきになりまして?」
婆《ばあ》やが間近く顔を寄せながら言った。そして、その右手をわなわなと顫わしながら、赤酒《せきしゅ》らしい赤紫色の液体をなおも紀久子の口に勧めようとしていた。
「お嬢さま! 本当にしっかりなさいませんと……これをもう少し召し上がりませんかよ? お嬢さま!」
「あら! 婆や! わたしどうかして?」
「お嬢さまはじゃあ、なにもご存じございませんのかよう? わたしがお嬢さまにお茶を差し上げようと思いましてお茶を持ってまいりましたら、お嬢さまはそこに倒れていらしったのでございますよ」
「あら! わたしどうかしたのかしら?」
「わたしはまたびっくりいたしまして、すぐにここへ抱き上げて、それからはすぐに赤酒を持ってきて差し上げたのですがね」
「あら! それ赤酒なの? 葡萄酒《ぶどうしゅ》じゃないの? 赤酒なら貰《もら》うわ。わたし、赤酒大好きよ」
紀久子はそう言って、蝋《ろう》のように白く、微《かす》かにわなわなと顫えている手を差し伸べてその赤酒をぐっと飲み干した。
「お嬢さま! お嬢さまはどこかお悪いのじゃございませんか」
「なんでもないわ。どこも悪くないのよ。脳貧血を起こしたのだわ」
「脳貧血だって、どこかお悪くないと……お嬢さまは、昨夜《ゆうべ》からなんとなくお顔の色が悪くて、ご心配事でもあるようなご様子でございましたよ」
「なんでもないのだわ」
「なんでもなければようございますが、何かご心配事でもございましたら、なんでもわたしに打ち明けてくだされませな。わたしはお嬢さまのことなら、生命《いのち》に懸けてもいたそうと思っているのでございますからね」
「婆や、なんでもないんだからもうあっちへ行っててよ」
またその時、いままで森閑としていた隣室から父親喜平の激しく怒鳴る声が、雷よりも凄《すさ》まじい勢いをもって紀久子の耳朶《じだ》を襲ってきた。
「言えっ! 言えったら言え! その秘密というのを言ってみろ! 正勝! てめえはなんで黙っているんだ?」
その激しい態度《ものごし》は、いまにも掴みかかっていきそうに感じられた。
「婆や! お父さまを呼んできてよ。早くお父さまを呼んできてよ。早く! 婆や!」
紀久子はベッドの上に半身を起こして、恐怖に戦《おのの》きながら狂的に叫んだ。
「お嬢さま! 大丈夫でございますよ。わたしがお傍《そば》についておりますから、お呼びなさらないでもよろしゅうございますよ」
「何を婆やは言っているの? 呼びに行くのがいやなの? いやならいいわ、わたしが自分で行ってくるからいいわ」
紀久子はいつもの温順さにも似合わず、狂的に叫びながら髪を振り乱してベッドから飛び下りた。
「お嬢さま! ではわたしが……」
「いいわ!」
彼女は老婆を押し除《の》けるようにして、ドアのほうへ突き進んだ。
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第三章
1
沈黙が続いた。喜平は目を輝かして正勝を睨《にら》みつけ、唇を噛《か》み締め、鞭《むち》の手をぐっと正勝の身近くへ差し伸ばし、その手を微《かす》かにわなわなと顫《ふる》わしていた。そして、正勝は腕を組み、唇を噛み締めてじっと俯《うつむ》いていた。嵐《あらし》を孕《はら》める沈黙だ。いままさに、鉄砲の火蓋《ひぶた》が切って落とされようとしているような沈黙だった。
正勝はじっと俯いて、嵐のように荒れ渦巻く心のうちに、喜平の胸に向かって投げつくべく、言葉の弾丸《たま》を整えているのだった。過去の噂《うわさ》から、過去の記憶から、彼は喜平の胸に投げつくべき言葉の数々を機関銃の弾嚢帯《だんのうたい》のように繰り出していた。そして、彼は秘《ひそ》かに
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