は手綱を緩めて、花房の走るに委《まか》せた。花房は疾風のように飛んだ。正勝はまったく手綱を緩めて、若いしなやかな脚の走るに委せながら、反動も取らずに鐙《あぶみ》の上に突っ立っていた。
「おっと!」
叫んだ瞬間に、正勝は草原の上へどっと投げ出されていた。しかし、どこにも怪我《けが》はなかった。すぐ起き上がって花房のほうを見ると、花房は足掻《あが》きをして起き上がろうとしながら起き上がれずにいた。
「どうしたんだ?」
栗毛の松吉が駆け寄りながら言った。
「前脚を折ったらしい」
「折ったって?」
「折ったわけでもねえらしいが……」
言いながら、正勝は、手綱をぐっと引いた。
「ほらっ! 畜生!」
花房は起きようと努めながら、容易に起き上がれなかった。
「畜生! ほらっ! どうしたんだい?」
「手綱を放して、尻《しり》っぺたを食わしてみろ!」
正勝は松吉の勧めるままに、手綱を放して尻に回った。そして鞭《むち》を振り上げると、花房はふた足三足ぐいぐいと足掻きをして、鞭を食う前に起き上がった。
「なんでもねえねえ」
「歩かしてみろ! 少しおかしいから」
正勝は手綱を取り、鞭を振り上げて花房に半円を描かせた。すると花房は、右の前脚がだらりとして、それに力のないような歩き方をした。
「変だなあ?」
「筋が伸びたんだよ。膝《ひざ》を突いたときに筋が伸びたんだから、なんでもねえ。三、四日も休ませておきゃあ治るよ」
「なんでもねえかなあ?」
「なんでもねえとも。しかし、三、四日は乗れねえなあ。北斗《ほくと》かなんかに乗りゃあいいじゃねえか?」
「また親父《おやじ》に怒鳴られるなあ」
「隠しておきゃあいいじゃねえか。三、四日のことだもの」
そして、松吉はややもすれば駆けだそうとする栗毛の手綱を引き締め、正勝は跛《びっこ》を引く葦毛を曳いて、放牧場の斜面を新道路のほうへと下りていった。
「どうかしたのか?」
平吾が黒馬の上から声をかけた。平吾はそうしているうちにも、いま捕まえたばかりのサラブレッド系の新馬浪岡が思うように手綱につかないので、困り切っていた。
「なんでもねえ。前脚の筋が少し伸びたらしいんだ。ほんで乗れねえんだよ」
「おい! ほんじゃ、この浪岡をおまえが曳っ張っていけ。新馬も曳っ張らねえで歩いていくと、親父がまたなんかかんか言うから」
「それさなあ。ほんじゃ、その浪岡をおれさ寄越せや」
そして、正勝は浪岡の首についている細引を平吾から受け取った。
平吾は新馬を正勝に渡して手軽になると、松吉と並んで馬を駆けさせた。正勝はうるさくぐるぐると縺《もつ》れる精悍《せいかん》な新馬を縺れないように捌《さば》きさばき、草原の斜面を下りていった。
4
紀久子は厩舎の前に立って、じっと放牧場のほうを見ていた。
秘《ひそ》かに部屋を出て厩舎へ来てみると、そこには三人の牧夫が馬に鞍を置いていて、正勝にだけ秘密の話をすることはできなかったからである。紀久子はそこに立っていて、機会の来るのを待っているより仕方がなかった。彼女はいつまでも放牧場のほうを見ていた。
紀久子の心のうちはそうしているうちにも、決して平和ではなかった。
(あんな風にしているうちに、あの人はほかの人たちへあのことを話さないかしら?)
紀久子は自分の胸に何匹かの蝮《まむし》がいるような気さえした。彼女は、正勝が早く厩舎へ帰ってくることを願っていた。
(蔦代を捜しに行くという口実であの人がどこかへ行ってしまったら、わたしはどんなにかほっとするのに……)
紀久子はそう考えて、正勝がこの牧場から姿を消すというのならどんなことでもしてやりたかった。そして、彼女は正勝が早く厩舎へ帰ってくるのを待った。
(この金さえ渡せば、あの人はすぐもうこの牧場からいなくなるのだわ)
やがて三頭の馬は一頭の新馬を拉《らっ》して、厩舎を目指して帰ってきた。紀久子は正勝の花房が真っ先に帰ってくることを願った。ところが、花房は途中で木の根に躓《つまず》いて跛を引きだした。
(あら! あの人はまたお父さまから叱られるのだわ)
紀久子は自分のことのように心配になった。いまの彼女にとって、自分が叱られることよりも正勝が叱られるのはもっといやなことだった。恐ろしいことだった。
(わたしどうしようかしら?)
紀久子は心臓の熱くなるのを感じながら、厩舎の前から放牧場のほうへ出ていった。
(わたしはあの人の身代わりになろう。花房の脚を折ったのは、正勝ではなく、わたしだということにしよう。わたしが花房に乗って駆けているうちに、花房が躓いて転んだのだと言えば、お父さまは叱らないに相違ないから。そして、ついでに金を渡してしまえば、あの人はこの牧場から姿を消してしまうに相違ないから)
紀久子はそ
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