紀久子はわなわなと身を顫《ふる》わせながら席を立った。
(あんなに叱《しか》りつけて……あんなに怒鳴りつけて……あの人がもしあのことをだれかに言ったりしたら……)
紀久子はそれを考えただけで全身が木の葉のようにわななくのだった。彼女は心配で胸が痛くなっていた。顔が蝋《ろう》のように白かった。
(あの人がもしわたしたち父娘《おやこ》を憎んで、あのことをだれかに言ったら、わたしはどうなるのだろう?)
それを考えると、紀久子は一時《いっとき》もじっとしてはいられなかった。
(お父さまはなにも知らないで、あの人をあんなにひどく叱ったり、蔦代のことを悪く言ったりしたけど、何もかもみんなわたしが悪いのだから、それをあの人にだれかへ話されたら……)
紀久子は夢遊病者のようにして、しかし、逃げていく者を追うような慌ただしさで自分の部屋へ入っていった。
(あの人が金が要るというのなら、わたしが出してあげよう。あの人は蔦代を捜しに行くから旅費を欲しいと言っているけど、本当はお金だけが必要なのに相違ない。お金ならわたしでできることなのだから、わたしがしてあげよう)
紀久子はそう心の中に呟《つぶや》いて、手文庫の底からそこにありたけの紙幣《さつ》を掴《つか》むと、それをポケットに突っ込んで自分の部屋を出た。
(わたしがこうまでしたら、あの人はお父さまのことは許してくれるに相違ない。お父さまはなにも知らずにあんなことを言っているのだし、あの人は要するに金が必要なのだから……)
紀久子はそう考えながら、帽子を目深に被《かぶ》って裏庭から厩舎《うまや》のほうへと走っていった。
3
厩舎の前には三頭の馬が引き出されて、三頭の馬にはそれぞれ鞍《くら》が置かれていた。そして、馬に鞍を置いてしまうと、正勝と平吾《へいご》と松吉《まつきち》の三人の牧夫は銘々に輪になっている細引を肩から袈裟《けさ》にかけた。そして、正勝は葦毛《あしげ》の花房に、平吾は黒馬《あお》に、松吉は栗毛《くりげ》にそれぞれ跨《またが》った。
「おい! 東からやるか?」
正勝は同僚を見返りながら、朗らかに言った。
「西からのほうがいいじゃないか?」
「西から?」
とたんに、正勝の拍車が花房の胴に入った。花房はとっとっと軽やかに※[#「足へん+鉋のつくり」、第3水準1−92−34]を踏んで放牧場のほうへ出ていった。続いて黒馬が走った。厩舎の前にぐるぐると円を描いて出足の鈍っていた最後の栗毛は、胴にぐっと拍車の強い一撃を食らって急にぴゅーっと駆けだした。そして、たちまちのうちに黒馬を抜き、葦毛の花房を抜いて走った。それを見て黒馬が走り葦毛が駆けだし、三頭の馬は土埃《つちぼこり》を掻《か》き立てながら、毬《まり》のようになって新道路を走った。
やがて、毬のようになって土埃の中に掠《かす》れていた三頭の馬は、道路から草原の中へと逸《そ》れていった。
春楡と山毛欅とが五、六本、草原に影を落として空高く立っていた。その下に小笹《こざさ》が密生していて、五、六頭の放牧馬が尾を振り振り笹を食っていた。栗毛と黒馬と葦毛の三頭の馬はV字形の三角形になって、その一団の放牧馬を襲った。人に慣れていない放牧馬はそれを見て、雲のように四散した。
「浪岡《なみおか》だぞ! 右へ逃げたその葦毛の……」
正勝はそう叫びながら、首を上げて逃げていこうとする新馬の右手へと、半円を描くようにして走った。そして、三間(約五・四メートル)ばかりの距離にまで追い詰めると、肩にかけてある細引を取ってその右斜め後ろから投げかけた。手繰っては投げ手繰っては投げかけた。葦毛の新馬浪岡は驚いて逃げ回った。細引は容易にかからなかった。正勝は何度も投げかけた。そのうちに、細引がくるくるっとその新馬の肩から胴に入った。
「早く早く! 早く」
正勝は叫びながら細引を引いた。その瞬間、巻き付いた細引の解かれるまでの間を、馬は縛られた形になって動くことができなかった。その機に乗じて平吾は黒馬を飛ばし、その新馬浪岡の左斜めから鬣《たてがみ》に飛びつき、首に綱をかけた。
「オーライ!」
黒馬はそして、首に綱をつけられて逃げ回ろうとする馬を引き摺《ず》るようにして斜面を駆けだした。
正勝は花房に※[#「足へん+鉋のつくり」、第3水準1−92−34]を踏ませながら、馬上で細引を輪に巻いた。そして、細引を手繰り終わると厩舎を目がけて正勝は、ぐっと拍車を入れた。栗毛がそれに続いた。栗毛は最初のうちは花房と五間(約九メートル)ばかりの距離を保っていたが、胴に拍車の一撃を受けると急に駆けだして、花房の右を抜こうとした。若い葦毛の花房は、それを見ると、急に一足跳びに移った。胴をぐっと伸ばして、放牧場の草原の中を一直線に走った。正勝
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