く締まらないのは、そりゃあ胴が太いからだろう?」
 喜平は林檎の皮を剥きながら、微笑をもっていつものように乗馬の話をしていた。
「なんか知らないけど、わたし駄目だわ」
 紀久子は父親の顔を見ないようにしながら、元気なく言った。彼女はいつになく元気がなかった。彼女は丸テーブルの上の紅茶にさえ手を出そうとはしなかった。彼女の純白の、天鵞絨《ビロード》の乗馬服の肩さえが、なんとなく寂しかった。
「駄目なことがあるもんか。馬を替えてみたらどうかな? 花房《はなぶさ》ならいいだろう?」
「わたしもう乗馬をやめるわ」
「なにもやめることなんかあるものか。初めはだれだってそう思うもんだ。しかし、そこを押し通さなくちゃ何事も上達はせんもんじゃからなあ」
「でも、わたしなんか駄目だわ」
「とにかく、花房で当分練習してみるといい。花房なら胴が細いから脚も締まるし※[#「足へん+鉋のつくり」、第3水準1−92−34]《だく》もよくやるし、きっとおまえの気に入ると思うから」
「わたしもう乗馬なんかあっさりやめてしまうわ」
「やめてしまわんでもいいじゃないか? 停車場へ敬二郎を送るときだって、これからは馬車などで送らないで馬で送っていくようにならないといかんよ」
 喜平はそう言って、大口に林檎を頬張《ほおば》った。紀久子は父親の言葉に衝《つ》かれたらしく、伏せていた目を上げて父親の顔を見た。紀久子のその顔は燐光《りんこう》を浴びてでもいるように病的なほど青く、窶《やつ》れてさえいた。
「馬で送っていって、そして帰りには敬二郎の馬も一緒に曳《ひ》いて帰れるようにならんとなあ」
 父親は微笑しながら、戯《ざ》れめく口調で言うのだった。
 そこへ、正勝がのっそりと歩み寄ってきた。喜平はすぐそれに気がついて目をやった。紀久子もそこに目を向けた。その瞬間に、紀久子は急に顔色を変えて恐怖の表情を湛《たた》えた。
「なんか用か?」
 喜平は突慳貪《つっけんどん》に言って、冷めかけた紅茶をいっきに飲み干した。
「少しお願いしたいことがあったものですから……」
「どんな話だ?」
 怒鳴るように言って、喜平はそっぽを向いた。そして、乗馬服の上着のポケットから葉巻を抜き取って、それに火を点《つ》けた。
「お金を少し借りてえのですけど……」
「金! 金を何にするんだ?」
「蔦の奴《やつ》が急にどこかへ行きやがったもんですから、捜しにいってこようかと思うんですけど……」
「本当に仕様のねえ奴だなあ、黙って逃げ出すなんて。黙って逃げていった奴なんか捜しに行ったところで仕方があるめえ。構わんでおきゃあいいじゃねえか?」
「それはそうですが、でも、自分の妹となってみると……」
「正勝! おまえはなんだってわしにひと言も挨拶《あいさつ》をしねえんだ! 自分の妹じゃねえか? 自分の妹を他人の家に預けておいて、妹がいくらかでも世話になっていると思ったら、黙って逃げていったというのに兄たるおまえが一言の挨拶もしないということはないじゃないか?」
「…………」
「済まないとか申し訳ないとか、なんとかひと言ぐらいは挨拶をするもんなんだぞ。それを一言の挨拶もしねえで、見えなくなったから捜しに行く旅費を貸せなんて、そんな言い方ってあるもんか? おまえはよくよく生まれたままの人間だなあ」
「…………」
「いったいどこへ行ったのか、見当がつくのか?」
「東京らしいんで……」
「東京らしい? たわけめ! 逃げていった者を東京くんだりまで捜しにいって、なんになるんだ? たわけめ!」
「いますぐなら、札幌《さっぽろ》の伯母のところに寄っていると思うもんですから」
「馬鹿《ばか》なっ! 逃げていったもんなんか捜しに行くことねえ! それより、正午《ひる》前にサラブレッド系の馬を全部捕まえておけ、買い手が来るのだから」
「…………」
 正勝はなにも言わずに上目遣いに喜平を見て、それからその目を紀久子のほうに移した。紀久子ははっと胸を衝かれた。憎悪! 怨恨《えんこん》! その目は爛々《らんらん》として憎悪と怨恨とに燃えていた。
「なんて目をしやがるんだ? たわけめ!」
 喜平は怒鳴りつけた。
「そんな目をしていねえで、早くあっちへ行け! そうして、すぐサラブレッド系の馬を三頭とも全部捕まえておけ! 買い手が来てから捕らえるなんて言ったって、そん時になってからじゃ容易なこっちゃねえから」
 正勝はもう一度、憎悪と怨恨とに燃える目を上げて、露台の上の父親と娘とをじっと睨《にら》むようにして見てから、静かにそこを離れていった。
「たわけめ!」
 葉巻の煙を空に向かって吐きながら、喜平はもう一度、正勝の後ろから怒鳴りつけた。
 項垂《うなだ》れて、静かにそこを歩み去っていく正勝の後姿はひどく寂しかった。

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