がまんして、東京へ出ていったほうがいいと思いますから、わたしは決心してしまいました。兄さんにだけは相談してからと思ったのですけど、兄さんはきっと止めると思いますし、止められては、わたしも兄さんもこのまま一生不幸に終わってしまうのですから、兄さんにも相談しないで、わたしは一人で決心しました。わたしのことは死んだものと思って、どうぞ捜さないでください。そのうちわたしも兄さんも幸福に暮らしていけるようになったら、わたしはきっと手紙を出します。そして、兄さんを東京へ呼びます。そして、兄さんをきっと幸福に暮らさせてあげます。わたしも兄さんも、このままでいたのでは、一生たったって幸福にはなりません。兄さんは一生たったって下男でいなければなりませんし、わたしは女中奉公をしていなければならないのですもの。わたしはそれを考えると悲しいのです。兄さんと別れていくのも悲しいのです。けれど、それはほんのちょっとの間のことです。二年か三年のうちには、わたしはきっと、兄さんに手紙を出して東京に呼びます。それまでは捜さないでください。わたしはどこにいても、毎日毎日兄さんの幸福を祈っています。わたしのことは死んだものと思って、どうぞ捜さないでください。そして、わたしが東京へ行ったことは、旦那《だんな》さまやお嬢さまに訊かれても、知らさないでください。兄さんだけ心のうちに思っていてください。お父さまやお母さまの生きていたときのことを思い出したり、これからは兄さんが洗濯などまで自分でしなければならないことを考えると、涙が出てなりません。お父さまやお母さまのお墓にも、一日も早く石を立てたいと思います。それには、このままでいたのでは駄目だと思いますから、わたしは思い切って東京へ行くのです。わたしのことは死んだものと思って、どうぞ諦めてください。涙が出て書けませんからこれでやめます。どうぞお身体を大切にしてください。兄さんに万一のことがあると、わたしは天にも地にも、ほんとうに一人きりになってしまうのですから。ではさよなら。愚かしき妹の蔦代から。
正勝の目には、またも熱い涙が湧いた。しかし、彼はその悲しみのためにも、躊躇《ちゅうちょ》しているべきときではなかった。
「これを証拠として見せりゃあ、だれも疑いをかけやしませんよ」
「でも……でも……その死骸《しがい》を……」
「死骸なんか、この谷底へ投げ込んでしまえばすぐもう熊に食われてしまうだろうし、熊に食われなくたってすぐもう雪が積もるから、来年の四、五月ごろになって雪が消えてから発見されても、自分で谷へ落ちて死んだのか鉄砲で殺されたのか、そのころには全然分からなくなっていますよ」
「正勝ちゃん! では、わたしの罪を庇《かば》ってくれるの?」
「紀久ちゃんにはおれの気持ちが、おれが紀久ちゃんをどんなに想《おも》っていたかってこと、分からないのかい?」
「分かってよ。ご免なさいね、いままでのこと許してね」
正勝はもうなにも言わなかった。彼は黙って馬車から飛び降りた。そして、すぐ妹の死体を抱き上げたかと思うと、それを崖際《がけぎわ》へ持っていって、谷底を目がけて投げ込んだ。そして、蔦代の死体は岩角に突き当たり突き当たり、深い谷底へと雑草の間を転がり落ちていった。どこかでふた声三声、高く鷹《たか》が鳴いた。
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第二章
1
森谷牧場主の邸宅は、高原放牧場のほとんど中央の地点にあった。緩やかな起伏がひと渡り波を打って過ぎた高原地帯の波形の低い丘を背にして、なおその下の放牧場をひと目に見下ろせる中階段の位置に、土手で取り囲んだ屋敷を構えているのだった。その周囲には春楡《はるにれ》や山毛欅《ぶな》などの巨大な樹木が自然のままに伐《き》り残されていて、ひと棟の白壁の建物が樹木の間に見え隠れていた。そして、その屋敷の前から二間幅(約三・六メートル)の新道路が三、四町(約三三七〜四三六メートル)の間を、放牧地の草原を一直線に割って走っていた。
白壁の建物は日本建築ながら洋風めいていて、南向きの広い露台を持っていた。木材の多い地方ではあるが雪に埋もれる期間が長いので、露台はコンクリートでできていた。コンクリートの階段と手摺《てす》りとがあり、階段の上がり口には蘇鉄《そてつ》や寒菊や葉蘭《はらん》などの鉢が四つ五つ置いてあった。
露台の中央には籐《とう》の丸テーブルと籐椅子《とういす》とが置かれて、主人の森谷|喜平《きへい》は南に向いて朝の陽光をぎらぎらと顔に浴び、令嬢の紀久子は北を向いて陽光を背に受け、向き合って腰を下ろしていた。丸テーブルの上には二つの紅茶|茶碗《ぢゃわん》が白い湯気を立てていた。そして、喜平は紅茶には手を出さずに、林檎《りんご》の皮を剥《む》いていた。
「脚《きゃく》がよ
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