なかった。
「結婚なんか、だってしようと思えば明日にでもできることなんだから」
「それはそうだがね。しかし、ぼくらが結婚してしまわないうちは正勝の奴、気持ちは静まらないと思うがなあ。奴は紀久ちゃんと結婚して、森谷家の財産の半分は開墾地の人たちへ分けてやることを考えているらしいから。考えているだけじゃなく、他人にももうその話をしているそうだから」
「それは、財産のほうなら半分ぐらい正勝に上げてもいいわね」
紀久子は極めてあっさりと言った。
「紀久ちゃん! 紀久ちゃんはそんなことを、本気に考えているのかい? もしそんなことが正勝の耳へでも入ったら、きゃつはどんなことをするか分からないよ」
敬二郎は驚きのあまり、手綱を手操りながら言った。
「だって、敬さんはわたしと結婚するんでしょう?」
「しかし、正勝の奴も紀久ちゃんと結婚をして……」
「そんなことできないわ。わたし敬さんと正勝と、二人と結婚するわけにはいかないわ。わたし、正勝となんか結婚したくないわ」
「それだから、ぼくらは早く結婚をしてしまわないといけないんだよ」
「それでも、正勝がわたしと結婚して、わたしの家《うち》の財産の半分だけ開墾地の人たちへ分けてやりたいというのなら、結婚は困るけど財産のほうだけ半分上げてもいいわ」
「そんな考えを起こしちゃ駄目だよ」
「だって、敬さんはわたしと結婚するんでしょう? わたしの家の財産と結婚するわけじゃないでしょう。それなのに、敬さんだけ両方とも取っちゃ正勝が少しかわいそうだわ。正勝の妹を殺した代わりにでも、財産の半分ぐらいなら正勝へ上げてもいいと思うわ」
「ぼくはそれには不賛成だ。紀久ちゃんがぼくを本当に愛していれば、そんなことは考えられないはずだ。ぼくを本当に愛していれば、結婚と同時に財産も全部二人の幸福のためにと……」
「敬さんは欲張りなのね」
「当然のことじゃないか? それだけだって、ぼくたちは早く結婚をしてしまわないといけないのだよ。結婚をしてしまえば、だれもそんな考えは起こさなくなるから。起こしたって……」
「では、春になったら……」
「おーい! 紀久ちゃん! 紀久ちゃん!」
だれかが後ろから大声に呼んだ。敬二郎と紀久子とは軽い驚きをもって振り返った。正勝だった。正勝は馬に乗って、枯草原の中を毬《まり》のように丸くなって飛んできた。
「紀久ちゃん! 早く来いよ」
「何か用なの? 正勝《まっか》ちゃん」
紀久子はそう言うと同時に馬腹にぐっと拍車を入れて、正勝のほうへ向けて馬を飛ばした。
「おれと一緒に来てくれ」
正勝は大声に言って、すぐ馬首を傾斜地のほうへ変えた。紀久子はそれに続いた。敬二郎は呆気《あっけ》に取られて、馬の上からぼんやりと傾斜地を下りていく正勝と紀久子との後姿を見詰めていた。
(おれには紀久ちゃんの本当の気持ちがどうも分からない。おれを愛しているのか、正勝を愛しているのか、雲を掴《つか》むような話だ。だいいち正勝の奴が、おれと紀久ちゃんとの間に婚約のあることを知っていながら、自分の女房か何かのように勝手に連れていったりしやがって……)
敬二郎は傾斜地を下りていく彼らの後姿を見送りながら、心の中に呟《つぶや》いた。
2
やがて、正勝は手綱を引いて馬を止めた。馬は立ち止まって大きく息をしてから、ふたたび静かに歩きだした。そこへ、紀久子の馬が歩度を緩めながら追いついてきた。
「正勝ちゃん! 何か用だったの?」
紀久子は息を弾ませながら、馴《な》れなれしく言った。
「紀久ちゃん! 敬二郎の奴と話なんかするのよせよ」
正勝は微笑を含んで、しかし睨《にら》むようにしながら言った。
「なんでもないのよ」
「あいつが散歩に誘ったって、一緒に散歩なんかするのよせよ」
「それでも、急に冷淡にするわけにはいかないのよ。あの人もお父さんが生きていれば、わたしと結婚するはずの人でしょう。急に空々しくするわけにはいかないのよ」
「しかし、そんなことを考えているうちに、あんたの気持ちの中へ深く入り込んできたらどうする?」
「大丈夫よ。黙って見ていてちょうだい。わたし、正勝ちゃんの言うことはなんでも聞くつもりよ。しかし、あの人の言うことは何から何まで聞いちゃいないわ。自分の気持ちの中に線を引いておいて、そこから中へは絶対に入れないつもりよ。そして、正勝ちゃんの言うことには絶対に線を引かないわ。黙って見ていてくれたら分かると思うわ」
「それならいいがね」
「わたしを疑《うたぐ》ったりしちゃ駄目よ。わたし、とてもよく考えているんだから。そして、あの人がしぜんとわたしから離れていくようにするわ。わたしからばかりでなく、この牧場にもなんとなくこう、いられないようにしてやるわ。それまでは、正勝ちゃんは黙って見ていてね」
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