「しかし、あいつはなんとなく癪《しゃく》に障る奴だからなあ」
「そんなことじゃ駄目だわ。いやな奴なら、それにつけても表面ではよくしてやらないといけないのよ。わたしがあの人と話をしたり一緒に散歩したりするのは、わたしからあの人を遠ざけるためなのだから疑わないでね。わたし、正勝ちゃんの言うことなら、本当になんでも聞くのよ。しかし、あの人の言うことは決して聞かないから。表面ではいやな顔をしないでいて、そして言うことだけは聞かないつもりなの」
「考えたもんだね」
「分かったでしょう? 疑っちゃいやよ。わたしは考えて考えて、考え抜いているんだから」
「しかし、あいつの顔を見ると、何かこう癪に障るね。いやな気持ちを一掃するように、これからひとつ吾助茶屋へでも行ってくるかなあ?」
「それがいいわ。それで、お金はあるの?」
「ないんだよ」
「少しきり持ってきてないのよ」
紀久子はそう言って微笑を含みながら、服のポケットから蟇口《がまぐち》を取り出して正勝に渡した。
「紀久ちゃん! しかし、紀久ちゃんはいつまでもお嬢さんのつもりで敬二郎なんかと一緒に遊んでいちゃ駄目だよ。間もなくもう、森谷家の奥さまになるんだもの、出歩かないで奥のほうへでも引っ込んでいろよ。紀久ちゃん!」
正勝は蟇口をポケットの中へ押し込みながら言った。
「大丈夫よ」
紀久子はそう言って微笑を含んだ。正勝は馬腹にぐっと拍車を入れて、傾斜地を飛び下りていった。紀久子はそれを馬の上から見送った。
(敬二郎さん! わたしを許してね。わたし、正勝になんか決して心を許してないのよ。わたし、あの人が怖いだけなのだわ。逆らったら、あの人はどんなことをするか分からないから)
紀久子はそう心の中に呟いた。そして、彼女の胸はしだいに激しく疼《うず》いてきた。彼女の両の目は、いつの間にか熱く潤んできていた。
(敬二郎さん! 敬二郎さん! あなただけよ。敬二郎さん! あなただけのわたしなのよ。いまになんとかなるわ。それまで許していてね)
紀久子は服の袖《そで》で目を押さえながら、心の中に叫んだ。そして、彼女は傾斜地の上のほうへ目を移した。傾斜地をこっちへ向けて、敬二郎の馬が静かに静かに歩いていた。
(敬さん!)
紀久子は心の中に叫んで、馬腹へぐっと拍車を入れた。馬は傾斜地の上へ向けて飛んだ。紀久子は大声に泣いてぶっつけたいような胸を、しかしぐっと引き締めるようにしながら、ふたたび馬腹へ拍車を加えた。
3
正勝は馬を下りると路傍の馬|繋《つな》ぎ杭《くい》に馬を繋いで、吾助茶屋に入っていった。
薄暗い居酒屋の土間には、開墾地の人たちが五、六人ばかり炉を囲んでいた。彼らはいっせいに戸口のほうを振り向いた。正勝は微笑を含んで、炉のほうへ寄っていった。
「正勝さんだで」
「さあ、正勝さん! ここへおかけなせえよ」
開墾地の人たちはそう言って、正勝のために自分の席を譲った。
「雑穀屋へ来たのかね。今年はどんなだね? 穀類のほうは?……」
正勝はそう言いながら、腰を下ろした。
「今日は雑穀屋の旦那《だんな》のとこさ、相談に来たのですがね。相談にならねえで、はあ物別れのまま帰ってきたところですが、業腹なものだからここで一本|貰《もら》って……」
開墾地の彦助爺《ひこすけじい》が鼻水を押し拭《ぬぐ》いながら言った。
「やっぱりそれじゃ、今年も値段が折り合わねえのかね?」
「今日の相談は、こっちも少し無理かもしんねえがね。おらんちの嬶《かかあ》が目を悪くして病院さ入れたんでがすが、手術をしなくちゃ目が見えなくなってしまうっていうんで、手術をしてもらうべと思ったら、それにゃあ百五、六十円はかかるっていうんでがす。しかし、片方の目どころか両方の目が見えなくなったって、おれにはそんな大金ができねえから、村の人たちと相談してみたところ、村の人たちが全部保証人になって雑穀屋から借りてくれるって言うんで来たのですが、雑穀屋も百五十両からとなると……」
開墾地の稲吉《いなきち》はそこまで言って、啜《すす》り泣くようにして笑いだした。
「おれらが保証人になって、今年は五十円だけ、そして来年も五十円だけ、そして再来年には全部|返《けえ》させるし、利子も相当につけさせるからって言ったんですが、おれらを信用しねえでがすよ」
喜代治《きよじ》は炉の中へ三度ばかり唾《つば》を吐きながら、唇を突き出すようにして言った。
「稲吉さん! 百五十円あれば、それで目が見えるようになるのかね?」
正勝はそう言って唇を噛《か》んだ。
「見えるようになるというんですが、片方の目を百五十円も出しちゃ……」
「見えるようになるのなら、おれがそれを出してやろう」
正勝はそう言いながら蟇口を取り出して覗《のぞ》き込んだ
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