るんだね?」
「おれが言わなくても、紀久ちゃんが三、四日うちに帰るから、それまで待っているんだね。おっとどっこい! 無罪に決定! 無罪に決定!」
 正勝はそう言って、ふたたび踊りだした。
「正勝くん! それはそれとして、それじゃ、早く一緒に行ってくれ」
「熊か? おれはご免だ。紀久ちゃんが帰ってこねえうちに、熊と間違えて殺されたりしちゃ困るからなあ。だれかほかの奴を連れていけよ。おれは前祝いでもしてくるから。おっとどっこい! 無罪に決定だ! 無罪に決定! 無罪に決定!」
 正勝はそう叫びながら、踊るような足つきで敬二郎の前を離れていった。

       3

 開墾場を貫通する往還を挟んで、五、六軒ばかりの木羽屋根《こばやね》の集落があった。森谷牧場と森谷農場とを目当てとしての、つまり、牧場と農場での労働に身体《からだ》を磨《す》り減らして余生を引き摺《ず》る人々によって形成されている、唯一の商業集落であった。雑貨店・雑穀屋・呉服店、小さな見窄《みすぼ》らしいそれらの店の間に挟まって、一軒の薄汚い居酒屋があった。
 正勝は踊るような足つきをしながら、その居酒屋の中へ入っていった。
 居酒屋の薄暗い土間の中央には四角の大きな炉があって、真っ赤に火が燃えていた。そして、その炉の周りには、無造作な造りつけのテーブルと腰掛けとが繞《めぐ》らされてあった。正勝はその腰掛けの一つに、身体を投げ出すようにして腰を下ろした。
「爺《じい》さあ! 一本つけてくれないか?」
「おっ! 正勝さんか? これはこれはしばらく」
 卯吉爺《うきちじい》はそう言いながら、ぼそぼそと土間へ下りてきた。
「熱くしてもらいたいなあ」
「熱く? あいよ。ときに、裁判はどんなことになったか、決定しねえかね?」
 卯吉爺は燗《かん》の支度をしながら訊いた。
「無罪さ? 無罪に決定したんだ」
「無罪? ほっ! 無罪かね。それじゃ、敬二郎さんは喜んでるベ?」
「敬二郎の奴なんか、なにも喜ぶわけねえさ。紀久ちゃんは敬二郎の奴なんか好きじゃねえんだもの」
「それは初耳だなあ」
 卯吉爺はそう言いながら、酒の肴《さかな》に烏賊《いか》の塩辛を運んできた。
「今度だって紀久ちゃんは、無罪に決定したっていう電報を敬二郎の奴に寄越さねえで、おれに寄越してるんだからなあ。紀久ちゃんはむしろ、敬二郎の奴を嫌ってるんだよ」
「それじゃ、お嬢さんは敬二郎さんよりも、正勝さんのほうを気に入っているのじゃねえのかな? どうもそうらしいなあ」
 爺はそう言いながら、酒を運んできた。
「おれはどっちを好きだか、そんなことは知らねえがな。しかし、敬二郎の奴を好きでねえことだけ、これは確かなことなんだ。もし敬二郎の奴を好きなのなら、今度だっておれのほうさ電報を寄越すわけはねえからなあ」
 正勝は上半身をぐっと後ろに引くようにして、炉の火の上に大股《おおまた》を開いた。
「そりゃあ、敬二郎さんよりもお嬢さんは正勝さんを好きなのだよ。それに違いねえとも。それ! 熱いうちに……」
 爺はそう言って、燗のできている酒を注《つ》いだ。
「そんなこたあまあ、おりゃあどっちだっていいがなあ」
 しかし、正勝の顔にはなにかしら、暗い重々しいものの底から浮かび上がってくる得意の表情が容易に隠し切れなかった。正勝は唇を微笑に歪《ゆが》めながら、熱い燗の酒を続けてぐびりぐびりと飲み干した。爺は炉の火を掻《か》き立てながら、無骨な手で酌を続けるのだった。
「どっちでもいいってこたあねえさ。いまのところお嬢さんに好かれるか好かれねえかっていうこたあ、こりゃあ大問題だぞ。お嬢さんに好かれりゃあ、それでまあ、森谷さまのお婿さまに決まったようなもんだ。森谷さまの財産といったら、こりゃあまた大したもんだ」
「おりゃあ、財産なんかどうだっていいんだ」
「お嬢さんにしてみりゃあ、そりゃあ正勝さんのことを気にするなあもっともな話だよ。牧場のほうも農場のほうも森谷さまと高岡《たかおか》さまと二人で始めて、森谷さまのお嬢さんと高岡さまの坊ちゃんの正勝さんとは兄妹のようにして育ったのを、高岡さまのほうだけが不幸なことになって、正勝さんをお嬢さんのお婿さんにするのかと思ったらそれもしないで、敬二郎さんを連れてくるんだから……」
「紀久ちゃんがおとなしいからさ。紀久ちゃんが自分の気持ちを言い張れば、親父だって無理やりに押しつけたりしやしめえから」
 正勝はそしてまた、ぐびりと酒を呷《あお》った。
「お嬢さまがおとなしいからって、牧場を始めるときのことを考えれば……」
「それなんだ。それだよ、卯吉爺さん! おりゃあ森谷の財産を自分のものにしてえと思わねえが、おれの親父ばかりじゃなく、開墾場のほうの何人かの人たちが実に酷《ひど》い目に遭っているんだから、
前へ 次へ
全42ページ中28ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
佐左木 俊郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング