紀久子はわなわなと身を顫《ふる》わせながら席を立った。
(あんなに叱《しか》りつけて……あんなに怒鳴りつけて……あの人がもしあのことをだれかに言ったりしたら……)
紀久子はそれを考えただけで全身が木の葉のようにわななくのだった。彼女は心配で胸が痛くなっていた。顔が蝋《ろう》のように白かった。
(あの人がもしわたしたち父娘《おやこ》を憎んで、あのことをだれかに言ったら、わたしはどうなるのだろう?)
それを考えると、紀久子は一時《いっとき》もじっとしてはいられなかった。
(お父さまはなにも知らないで、あの人をあんなにひどく叱ったり、蔦代のことを悪く言ったりしたけど、何もかもみんなわたしが悪いのだから、それをあの人にだれかへ話されたら……)
紀久子は夢遊病者のようにして、しかし、逃げていく者を追うような慌ただしさで自分の部屋へ入っていった。
(あの人が金が要るというのなら、わたしが出してあげよう。あの人は蔦代を捜しに行くから旅費を欲しいと言っているけど、本当はお金だけが必要なのに相違ない。お金ならわたしでできることなのだから、わたしがしてあげよう)
紀久子はそう心の中に呟《つぶや》いて、手文庫の底からそこにありたけの紙幣《さつ》を掴《つか》むと、それをポケットに突っ込んで自分の部屋を出た。
(わたしがこうまでしたら、あの人はお父さまのことは許してくれるに相違ない。お父さまはなにも知らずにあんなことを言っているのだし、あの人は要するに金が必要なのだから……)
紀久子はそう考えながら、帽子を目深に被《かぶ》って裏庭から厩舎《うまや》のほうへと走っていった。
3
厩舎の前には三頭の馬が引き出されて、三頭の馬にはそれぞれ鞍《くら》が置かれていた。そして、馬に鞍を置いてしまうと、正勝と平吾《へいご》と松吉《まつきち》の三人の牧夫は銘々に輪になっている細引を肩から袈裟《けさ》にかけた。そして、正勝は葦毛《あしげ》の花房に、平吾は黒馬《あお》に、松吉は栗毛《くりげ》にそれぞれ跨《またが》った。
「おい! 東からやるか?」
正勝は同僚を見返りながら、朗らかに言った。
「西からのほうがいいじゃないか?」
「西から?」
とたんに、正勝の拍車が花房の胴に入った。花房はとっとっと軽やかに※[#「足へん+鉋のつくり」、第3水準1−92−34]を踏んで放牧場のほ
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