。しかし、彼女は間もなく戻ってきた。彼女の両手には二つの石油缶が提げられていた。彼女は戸口を入ると、戸口をさっと開いておいて、ストーブのところから戸口のほうへ向け、戸口から廊下のほうに向かって、ざーっと二缶の石油をぶち撒《ま》いた。
それから、紀久子はふたたびストーブの前へ駆け戻って、そこにある腰掛けを取り上げるとそれでストーブをぐいっと押し倒した。ストーブは煙突から外れて真っ赤な火をこぼしながら、床の上へがらがらと倒れた。次の瞬間、ストーブから飛び出した火の塊は床の上へ溜っている石油の池の上を、戸口のほうへ向けてちちっと走っていった。
紀久子はその隙《すき》に敬二郎の死骸を抱き上げて、南面している戸口のほうからバルコニーのほうへ駆け出していった。
7
乾燥し切っている木造の建物は、たちまちにして猛火に包まれてしまった。
紀久子の寝室の鉄格子の嵌まっている磨《すり》ガラスの窓に、猛火に責め立てられて※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》き苦しんでいるらしく、両手を広げて窓に飛びかかっている正勝の姿が影絵のように映って、踊り狂っていた。
「紀久ちゃん! 紀久ちゃん! 開けてくれ!」
遠くの遠くのほうから、轟々《ごうごう》と渦巻いている猛火の音の下で、そんな風に叫んでいる声が微かに聞こえた。
「開けてくれ! 早く早く! 紀久ちゃん!」
「寒いのでしょう? 温めて上げるわ」
紀久子は敬二郎の死骸を抱いて、降りかかる火の粉を浴びながらその窓の下に行って叫んだ。
「敬さん! わたしの本当の心がいま初めて分かってくれて? え、敬さん!」
紀久子はそう言って、固く固く死骸を抱き締めた。
「敬さん! 紀久子はやっぱり、敬さんだけの紀久子だったわ。敬さん! 分かってくれて?」
紀久子は踊るようにしながら、敬二郎の唇に自分の唇を押しつけた。
「ね! ね! あなただけでしょう。紀久子の唇に触ったのはあなただけよ。だれも、わたし、触らせなかったのよ」
紀久子はふたたび、その唇を敬二郎の唇の上に置いた。次の瞬間、紀久子の唇は敬二郎の顔の上に、雨のように降った。
遣る瀬のない衝動がそして、敬二郎の死骸をさらに固く固く抱き締めさせた。
「お嬢さま! お嬢さま! 大変なことになりました」
だれか五、六人の人間が、ばたばたと駆けつけてきた。
前へ
次へ
全84ページ中83ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
佐左木 俊郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング