機関車
佐左木俊郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)山脈の裾《すそ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)町|端《はず》れ

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》りながら
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     一

 その線は、山脈に突き当たって、そこで終わっていた。そしてそのまま山脈の貫通を急がなかった。
 山脈の裾《すそ》は温泉宿の小さい町が白い煙を籠《こ》めていた。停車場は町|端《はず》れの野原にあった。機関庫はそこから幾らか山裾の方へ寄っていた。温泉の町に始発駅を置き、終点駅にすることは、鉄道の営業上から、最もいい政策であったから。
 終列車を牽《ひ》いて来た機関車はそこで泊まった。そして翌朝の最初の列車を牽いて帰って行った。
 終列車の機関車には、大抵《たいてい》、若い機関手が乗って来た。そして同じ顔が、五日目|毎《ごと》ぐらいの割に振り当てられていた。それは若い独身の機関手達の希望からであった。その出張費が、ちょうど、温泉の町での、一晩の簡単な遊興を支えることが出来たから。

     二

 吉田は終列車組の若い機関手であった。
 併し吉田は、温泉の町の遊廓へ、出張費を持って行くことが殆《ほと》んどなかった。彼は出張費の大半で新しい本を買うことにしているのであった。
「吉田! てめえ、いい歳をして、よく我慢していられるなあ? ピストン・ロットに故障でもあんのかい?」
 仲間の機関手達はそんな風にいうことがあった。
「馬鹿いうな! 故障なんかあるもんか。僕は、てめえ等のように、やたらと蒸気を入れねえだけのことさ。」
 吉田は口尻を歪《ゆが》めるようにして、軽く微笑《ほほえ》みながら、そんな風にいった。
「だからさ。たまには無駄な蒸気も入れて、ピストン・ロットぐらいは運転させなくちゃ、人間として、機関車の甲斐がねえじゃないか?」
「僕は第一、機関車だけで運転するっていうようなことが嫌なんだ。まして、ピストン・ロットを動かしたいだけのことで、わざわざあんなところまで行くのは嫌なんだ。」
 要するに吉田は、女性を単なる快楽の対象として取り扱うのが嫌な気がするのであった。何かしらそこに相互的な関係を考えずにはいられなかった。

     三

 機関庫裏には、滝の湯の方への、割合に平坦な路が一本うねっていた。吉田は機関庫の宿直室からぬけて、よくそこへ散歩に出て行った。
 若々しい青葉の晩春で、搾《しぼ》りたての牛乳を流したような靄《もや》が草いきれを含んで一面に漂っていた。吉田は口笛を鳴らしながら、水色の作業服のズボンに両手を突っ込んで、静かに歩いた。遠くから、湯の川の音が睡《ねむ》そうにとぎれて来た。野犬が底の底から吠えたてていた。
「機関手さん! 御散歩?」
 靄の中から病気の繊《かよわ》い女の声がした。
 吉田は口笛を止めて振り返った。鼠色の女の姿が、吉田の胸の近くまで、跳ねるようにして寄って来た。
「機関手さん! 済みませんが、私を送って行って下さらない?」
 顔を伏せるようにして、女は、袂《たもと》の端を噛みながら低声《こごえ》にいった。白粉の匂《にお》いと温泉の匂いとが、静かに女の肌から発散した。
「ね! いけませんこと?」
「…………」
 吉田は、ひどく当惑した。彼は黙って、ただ、女の白い顔を視詰《みつ》めていた。
「いけませんこと? ね、機関手さん。」
 こう彼女は繰り返した。
「送って下さいよ。ね、いいでしょう?」
「あなたの家は、一体、どこなんです?」
 吉田は、彼女の肌からの体温を身近に感じながら、初めて口を開いた。
「すぐですわ。すぐそこなの。」
「じゃ……」
 吉田は首を垂れるようにしながら歩き出した。彼女は彼の身体へ寄り添うようにしてついて行った。

     四

 彼女は町端れに、六畳と三畳との二間の貸家を借りて、そこでささやかながら生存を続けていた。土地の誰かが、鉄道の開通した当座に、長い逗留《とうりゅう》の客を当て込んで建てた家であった。簡易な別荘風の安普請《やすぶしん》であった。併し、誰も借り手がなく、長い間あいていたもので、彼女は僅かの家賃で借りることが出来た。
 彼女の家の中には、殆んど家具というようなものが無かった。簡単な炊事の器具のほかに、何ものをも必要とはしないからであった。幾度も幾度も湯につかり、昼の間は眠って、夜が来ると眼をさますのが、彼女の二十四時間であったから。
 彼女は逗留客としての一面を生活し、同時に、出稼ぎ人としての滞在をしているのであった。彼女の温泉場への第一の目的は、都会の場末
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