街頭の偽映鏡
佐左木俊郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)偽映鏡《ぎえいきょう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)最近|丸《まる》ノ内《うち》辺りの
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       1

 偽映鏡《ぎえいきょう》が舗道に向かって、街頭の風景をおそろしく誇張していた。
 青白い顔の若い男が三、四人の者に、青い作業服の腕を掴《つか》まれて立っていた。その傍《そば》で、商人風の背の小さな男が鼻血を拭《ぬぐ》ってもらっていた。
「喧嘩《けんか》か?」
 その周囲に人々が集まりだした。
「何かあったんですか?」
 偽映鏡の中に、無数の顔が歪《ゆが》みだした。
「喧嘩したんですね」
「いや! 気が変らしいんですよ」
「あの髪の長い男がですか?」
 青白い顔の男はおりおり、長い頭髪をふさふさと振り立てていた。そして、周りの人たちを睨《にら》むような目で見た。
「どうしたんだ? どうしたんだ?」
 巡査が群衆を掻《か》き分けてそこへ入ってきた。続いて、二人の男が汗を拭《ふ》きながら群衆の前に出た。
「喧嘩ではないんだな?」
 巡査は自分の後ろについてきた男を見返りながら言った。
「ええ、なにも言わずに、突然がーんと殴りつけたんです」
「きみはどうしてそんな乱暴をするんだね?」
 巡査は青白い顔の男の肩に手を置きながら、怒ったような顔をして言った。男はなにも言わずに巡査の顔を見詰めていた。
「気が変らしいんですよ。どうも……」
 だれかが傍から言った。
 青白い顔の男はただときどき、静かに頭を振るだけであった。そして、怪訝《けげん》そうな目で周りの群衆を眺め回すだけであった。
「気が変になったにしても、なにかきっかけというものがあったろう?」
 巡査は鼻を押さえて、仰向《あおむ》きになっている男の傍へ寄っていった。
「それはそうですが、やっぱり気が変らしいんですね。わたしはそこの店に坐《すわ》っていて、よく見ていたんですが……」
 こう言って、偽映鏡の前から焼栗屋《やきぐりや》の主人が巡査の前へ出ていった。
「どっちから来たのか、わたしの気がついたのはそこの鏡の前に立っているときなんですが、その時はちっとも変わった様子がなかったんです。それが……」
「この若者は毎朝出がけに、わたしのところで煙草《たばこ》を買っていくんですがね」
 三、四軒先の煙草屋の主人が、こう横から口を入れた。
「前には、毎朝きっと二人で出かけていましたがね。同じ年齢《とし》ごろの、この若い者よりは背の高い眼鏡をかけた若い者と二人で。……それが、いつのころからか一人になったんですが、それでも毎朝きっとわたしのところで煙草を買っていくんですよ。……そうですね、一人になってから一か月以上にもなりますかな? きっと、わたしはこの先の鉄管工場へ行っているのに相違ないと思うんですがね。しかし、今朝も煙草を買っていったんですが、今朝はなんでもなかったようでしたよ」
「なにしろ、そこの鏡の前に立ってしばらくじっと鏡を見詰めていましたよ。きっとそのうちに、気が変になったんだと思うんですよ。その鏡はそんな風に、何もかも変に映る鏡なもんですから。……鏡の中の世の中が本当なのか? 現実《ほんと》の世の中が本当なのか? ちょっと変な気がしますからね。それで、この男もやっぱり気が変になったもんですね。がらがらとこの店のものを手当たり次第に投げ出したんですよ。で、宅の若い者が止めようとして出ていったら、押さえもしないうちに鼻柱を殴りつけたんです」
「鼻血が出ただけで、大したことはないんだな?」
「ええ、こっちは別に……」
「じゃとにかく、本署まで連れていって調べるとしよう」
 巡査はそう言って、青い作業服の腕を掴んだ。青白い顔の男は不思議そうに首を傾《かし》げた。反抗をしそうな様子などは少しもなかった。
「さあ! 先に立って歩きたまえ」
 巡査は腕を掴んで前へ押しやるようにした。男はなにかしらまったく意識を失っているもののように、よろよろとした。群衆がその周りで急にどよめいた。
「旦那《だんな》! ちょっと待ってください」
 潮《うしお》のようにどよめきだした群衆の中から、茶色の作業服を着た中年の男が叫ぶようにして巡査の前へ出ていった。
「なんだ? きみはこの男を知っているのかい?」
 巡査は立ち止まって言った。
「はい。同じ工場に働いている男なもんですから。……旦那! できることなら、わたしに預けてくださいませんかな。この男は気が変になったっていっても、神経衰弱がひどくなったんで、大したことはないんで……工場の者はみんなよく知ってるんですが、あることからひどく鬱《ふさ》ぎ込んで、まあ、神経衰弱がひどくなったんで……」
「別に罪を犯しているというんじゃないから、きみの知っている人間で、引き取っていって保護を加えるというのなら、そりゃあ引き渡すがね。しかし、どうも意識を失っているというような点もあるから、よほどその、気をつけないというと……」
「吉本《よしもと》! いったいどうしたんだよ。え? しっかりしろよ」
 茶色の作業服は、青い作業服の肩を叩《たた》きながら言った。青い作業服の吉本は自分で自分が分からないらしく、首を傾けて考え込むようにした。
「本当にしっかりしなきゃ、駄目じゃねえか?」
 茶色の作業服はもう一度、吉本の肩を叩きながら言った。しかし、吉本はやはり半ば夢を見ているというような具合であった。群衆がその周りから口々に喚《わめ》き立てた。
「いったい、その神経衰弱になった原因というのは、どんなことなんだね?」
 巡査は厳粛な顔をして、茶色の作業服に訊《き》いた。
「友達関係からなんですがね。何か深い約束があったとみえて、まるで兄弟のようにしていましたっけ、その友達の永峯《ながみね》ってのが、約束を反古《ほご》にしたらしいんですよ」
「その約束っていうのは、どんなことか分からないのかね?」
「二人とも大学を中途で退《ひ》いてきた人たちで、約束をしたのは大学にいるころらしいんで、わたしたちにはよく分からないんですが、他人《ひと》の噂《うわさ》ですと労働運動らしいんですよ。なんでも、二人で一緒になってわたしたちの工場の中へ組合を作ろうっていう相談をしていたらしいんですが。そして纏《まとま》りかけていたんですが、その永峯って男はどういうものか急に気が変わってしまって、工場を出ていってしまったんです。それで組合のほうもおじゃんになってしまったし、兄弟のようにしていた友達がいなくなって寂しくなったんですね。それから急に鬱ぎ出したんですから」
「しかし、それにしても偽映鏡を見ているうちに気が変になるというのは、ちょっと不思議だがな。とにかく、じゃ、気をつけて連れていってくれ」
 巡査はそう言って、そのままそこから群衆の中へ割り込んでいった。
「そいつは、二人組みの詐欺だろう」
 群衆の中からそんな声が起こった。そして、群衆は潮騒《しおさい》のように崩れだした。
「吉本! 本当にしっかりしてくれ」
 茶色の作業服はそう言って、吉本の手を引いて群衆の中へ入っていった。

       2

 鉄管工場の職工たちはひどく吉本に同情した。彼はその後も、幾度かその発作的症状に襲われつづけていたから。
 しかし、彼の発作的症状はたいてい、すぐ回復してしまうのが常であった。
 彼の発作的症状は夕立のように知人の間を騒がせて、その日一日は頭を振りふり意識を失ったもののようにしているのであるが、翌朝になるともう何事もなかったもののようにして、いつもと同じように工場へ出てくるのであった。
「吉本! あんな奴《やつ》のことはもう忘れてしまえばいいじゃないか?」
 こんな風に工場の人たちは言った。
「女のことででもあるなら、いつまでも忘れられねえってこともあるだろうが、ほかのことと違って、そんな裏切者のことをいつまでも思い切れずにいちゃ、運動なんかできないじゃないか?」
 鉄管工場の中の同志たちは、そんな風にも言った。
 吉本はすると、いくぶんか顔を赧《あか》らめるようにしてにやにやと微笑《ほほえ》みながら、昨夜の夢の中の出来事をでも思い出すようにして言うのであった。
「自分でもそう思っているんだがね。しかしどうにもならないんだ。だから、永峯のことを思い詰めていると発作が起こるというのじゃなくて、永峯の奴がおれの頭をそんな風に作り替えていったんだ。ぼくだってもう、永峯のことなんか忘れているんだから」
「永峯の奴め、仕様のねえ奴だな。工場の中の組織は作り替えやがらねえで、吉本の頭なんか変に作り替えやがってさ」
 職工たちはそんな風に言ったりした。
「しかし、もう大したことはないんだ。すぐよくなるよ」
 吉本はこう言って、平常は少しも変わったところがないのだが、ときには、そう話している途中から発作に襲われることがあった。
 発作に襲われるときの吉本は、その直前まで少しも変わった様子がなくていて、突然に相手の頭部を殴りつけるのが常であった。
「なんだえ? きさまは? 冗談はよせ!」
 冗談をしているのだと思って吉本の顔を見ると、彼の顔はもう変に緊張してしまって、静かに頭を振りふり怪訝そうに相手の顔を見詰めているのであった。
「なんだえ? 吉本! 冗談じゃねえのか?」
 しかし、吉本はその時にはもう何事も判別がつかぬらしく、そしてそれ以上には狂暴になるらしくもなく、ただじっと相手の顔を見詰めているだけであった。ときどき静かに頭を振りながら。

       3

 鉄管工場の経営者側にとっては、もっともいい機会がやって来た。なんらそのきっかけになる事件がないだけで追放することのできずにいた人間が、狂暴な発作を起こすようになったのであるから。
 吉本は人事係の前に呼び出された。
「きみは近ごろ、少し具合が悪いそうじゃないかね? いったいどんな風なのかね?」
 こんな風に人事係は言った。
「別に大したことはないんです」
「きみは大したことがなくても、一緒に働いている者はずいぶん迷惑らしいからね?」
 微笑みながら人事係は言った。
「少し工場を休んで、静養してみてはどうだね? 取り返しのつかないようなことになると、あとで後悔してみたところで仕方がないから……」
「それはそうですが、ほくはいますぐ工場を休むとなると、生活ができないんです」
「静養するようだったら、工場のほうから幾らか金を出すから、まあ、ゆっくり静養するんだね。そして、回復したらまた来たらいいじゃないかね?」
「しかし、大したことはないんですよ。ただこうして話しているうちに、なんかこう……」
 吉本はそう言いながら、人事係の机の上からインク・スタンドを取ってそれを手にしたかと思うと、人事係の頭部を目がけて投げつけた。
「おいおい! 何をするんだ? 冗談はよせ、冗談は!」
 麻の白服をすっかりインクだらけにされて、人事係はうろたえながら言った。
 しかし、吉本にしては決して冗談ではなかったのだ。彼は静かに頭を振りながら、怪訝そうな目でじっと相手の顔を見詰めているのであった。
 そしてとにかく、吉本は幾らかの金を貰《もら》ってその鉄管工場を追い出されていった。

       4

 吉本が郊外のとある丘の上に永峯の家を訪ねていったのは、彼が工場を追い出されてから約一週間ばかりの日が経《た》ってからであった。
 永峯がそこに、ある一人の女性と家を持ったのはひどく突然であった。
 彼の友人のだれもが知らずにいたほどで、永峯ともっとも親しかった吉本でさえ、一か月あまりも日が経ってから、ある偶然のことで知ったほどであった。――そういう意味から、突然というよりも、むしろ秘密にされていたというべきであった。少なくとも、吉本の受けた感じは秘密なプログラムであった。
 鉄管工場の人たちが観察しているように吉本が憂鬱《ゆううつ》になったのは、永峯が彼らを裏切って行方を晦《くら》ましたからではなかった。――正確に言うと、永峯の裏切りに対して
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