吉本が憂鬱になりだしたのは、行方を晦ましていた永峯を発見したその日から始まっていた。――というのは、実は永峯の行方を見失うと同時に、吉本はある一人の女性の行方をも見失ったからであった。
吉本は、自分から同時に姿を晦ましていったこの二人の友達を、まず、その秋川雅子《あきかわまさこ》という女性の行方から捜しにかかったのであった。
最初に、吉本が中学校からの友人、秋川の妹の雅子を知ったのは、彼が高等学校に入ってから間もなくのことであった。そして、吉本はやがて秋川の妹の雅子をひどく愛しだしたのであった。が同時に、永峯もまたそのころから彼女を愛しだしていることを知ったので、彼は自分の愛情を結婚に向かって進めることをやめてしまったのであった。親しい友人の間で彼女を奪い合うというようなことがいやだったからでもあったが、本人の彼女の態度がだれのほうをより多く愛しているのか、どうしてもはっきりとしなかったからでもあった。
そして、彼らは自分たちのほうからも、なるべく彼女のことを忘れようと努めた。彼らが工場へ入って労働運動というような仕事に身を投げ出したのも、ある意味ではその積極的な一つの表れということができた。
しかし、彼らはやはり、容易に彼女のことを忘れることができなかった。
「おい! 秋川のところへ行ってみようじゃないか。秋川はぼくらとは階級が違うから、思想的に立場が違うから、仕事は一緒にやっていけないが、友人として、その友情だけは続いているのだから……」
彼らはそう言って、よく秋川の豪壮な邸宅を訪ねていった。そして、彼らの共通な友情は秋川のうえに続けられていくと同時に、妹の雅子のうえにも同じように続けられていた。
そんな風にしているうちに、永峯が突然どこかへ姿を晦ました。吉本はなにかしら片腕の自由を失ったような寂しさから、ほとんど毎晩のように秋川を訪ねていくようになったのであったが、彼はふと、妹の雅子の姿がいっこうに見えないことに気がついた。
「雅子さんはどうしたんだね? 少しも見えないね」
吉本はとうとうこんな風に訊いた。
「雅子は恋をして、この家《うち》を出ていってそのまま帰ってこないんだ。たいがいの見当はついているんだが、ぼくがわざと捜しに行かないんだ。父や母はいろいろ言っているんだけど、ぼくの考えでは、彼女の自由を束縛するわけにはいかないからね」
秋川はそんな風に言ったきりであった。
吉本はそこで、彼女の行方を捜しだしたのであった。永峯が自分を裏切ってどこかへ行ってしまった以上、雅子のうえに自分の愛情をどんなに進めようと差し支えはないのだと考えたから――。しかし、いよいよ彼女の住んでいる家を捜し当ててみると、そこに永峯の表札がかかっていたのであった。
吉本はそれを見届けておいただけで、彼らの平和と幸福とを掻き乱すようなことはしなかったが、鉄管工場のほうを追い出されてみると、やはり秋川と永峯のところよりほかには訪ねていくところもなかった。
5
青い芝の丘に張り出されているバルコニーの上で、藤棚《ふじだな》の緑を頬《ほお》に染ませながら雅子は毛糸の編物をしていた。
「雅子さん!」
吉本は庭から声をかけた。彼女はひどく驚いて、怪訝そうに彼のほうを見た。
「ぼくです。吉本です」
「あらっ! 吉本さん。よくおいでくださいましたわ」
しかし、彼女は微笑みながら赧くなった。
「ずいぶんあちこちを捜して、ようやく分かったんですよ。だいいち、転居通知をくれないなんてひどいやあ」
「ほんとに……ご免なさい。どなたにもあげなかったのですから……ほんとに、よくおいでくださいましたわ。どうぞお上がりくださいな」
「永峯は?」
「今日は土曜日ですから、じき帰りますわ。まあ、お上がりになって、ゆっくり遊んでいってください」
「ぼくに水を一杯ください」
吉本はそこのコンクリートで畳まれた階段を上がりながら、喘《あえ》ぐようにして言った。
「いま、お茶を持ってこさせますわ。まあ、ここへおかけになって……」
「実はぼく、四、五十日ほど前に、ここの家を捜して来たことがあったんですよ。本当は、ぼくは雅子さんを捜しに来たんだけど、偶然のこと、永峯の居場所まで分かって、驚いて帰ったんですよ」
吉本は与えられた椅子《いす》に腰を下ろしながら、そんなことを言った。
「その時遊んでいってくださればよかったんですのに……」
彼女はまた顔を赧くしながら言った。
「でも、幸福そうだったからな。あのころは、ぼくが顔を出すのは幸福な小鳥の巣を鷹《たか》が覗《のぞ》くようなもんだと思って、そのまま黙って帰ってしまったんですが、そのお陰でぼくはすっかり神経衰弱になってしまったんですよ」
「兄から聞きましたわ。それをお聞きして、わたし、どうしていいか分からない気がいたしましたの。みんなわたしから起こっていることなんですから」
彼女はそして、彼の顔をまともに見ないように自分の膝《ひざ》の上に目を落とした。
「雅子さん! あなたは幸福なんですか?」
吉本は突然、思い出したようにしてそんなことを訊いた。
「さあ、どう言ったらいいんでしょう? 兄からそのことをお聞きするまでは、まあ、幸福だったかもしれません。でも、吉本さんのことをお聞きしてからは、わたし、なんだか幸福でなくなりましたわ。みんなわたしから起こったんだと思うと、どうしても幸福な気持ちにはなれませんの」
「永峯はいったい、ぼくのことをどう思っているんでしょうね?」
「永峯も、吉本さんのことはたいへん気の毒がっているんですわ。そして、永峯もやはり、自分から起こったことだと思っているんですの。自分が裏切らなかったら、吉本さんはどうもなかったように思ってるんですから……」
「じゃ、永峯はぼくが雅子さんを愛していたのを、知らなかったのかしら?」
「知ってはいたんでしょう。でも、自分のほうが吉本さんよりももっともっと……」
「それはだれだってそう思うだろうけれど……それで、雅子さんもそう思っていたんですか?」
「最近まではね。でも、わたしには分からなくなってきましたわ。永峯と吉本さんと、立場を置き替えたら、あるいは永峯のほうが吉本さんのように神経衰弱になっていたかもしれませんし、わたしには分からなくなってきましたわ」
彼女はそのまま口を噤《つぐ》んでしまった。二人の間には深い沈黙が落ちてきた。
6
永峯はそれから間もなく帰ってきた。最近|丸《まる》ノ内《うち》辺りの会社に勤めだしたらしい。彼は白麻の背広をかなぐりすてながら、慌て気味にバルコニーへ出てきた。
「吉本! やあ!」
「やあ!」
「ぼくはきみに合わせる顔がなかったんだ。よく来てくれたね」
永峯はひどく昂奮《こうふん》して吉本の手を握った。
「本当によく来てくれたね。ぼくはきみが怒っているかと思って……」
「怒ってやしないがね。……きみはまた、すっかりプチブルになってしまったじゃないか?」
べつだんに詰責するらしい様子もなく、吉本は微笑を含みながら言うのであったが、永峯にはなにかしら鑢《やすり》にかけられるようなものが身内を走る感じだった。
「それだけは許してくれ。ぼくは本当にきみには済まないことをしたと心から思っているんだから」
永峯はいくぶんか顔を赧くして、頭を掻きながら言った。
「ぼくもなにも、きみを責めているのじゃないんだ。ただ、きみの持っている思想も結局、本物ではなかったんだということを言っているだけなんだ」
「ほくはきみからそれを言われるのが辛《つら》いんだ。ぼくのあやふやな思想が、態度が、きみを病気にしたのだから」
永峯は吉本の顔を見ないようにして、一塊の鉄のように頑丈な磁鉄製の灰皿へ煙草の灰を落としながら言った。
「そりゃきみ、きみだけじゃないさ。あやふやといえばぼくだってあやふやなんだ。要するに人間なんて一個の偽映鏡だよ。種類はいろいろあるがね。しかし、偽映鏡だよ。われわれは、われわれの環境の中でわれわれという偽映鏡を作られてきたんだ。そして、われわれという偽映鏡は大学を出て洋行して、博士になって、そして死んでいく。これを当然の世界として映していたんだ」
「型どおりにね」
「型どおりに。――ところが、世の中にはこれを当然として映さない偽映鏡もあるんだ。環境によってね。たとえばぼくらが工場へ行ったのだって、少なくともわれわれという偽映鏡のガラス質が、いままでとは違った竈《かまど》の中で異なった偽映鏡に造り替えられたのだったともいえるんだ。だからぼくだって、こうして一人ぽっちになっていれば、またどんな偽映鏡に造り替えられないとも限らないんだ。そういう意味で、ぼくは決してきみを責めやしない。きみがどんな風に世の中を見ようと、永峯という偽映鏡は永峯という偽映鏡なりに世の中を映しとっているのだから。そして、ぼくはぼくという偽映鏡なりに世の中を映しとっているのだから」
「しかしね」
吉本はそれだけを言って深い溜息《ためいき》を一つした。吉本の言葉が永峯には、一つ一つ皮肉に聞こえてくるのであった。
「……しかし、ぼくも、自分の立場が誤っているということだけは知っているんだよ。しかしどうにもならないんだ。いまのぼく自身の鏡で世の中を映しているのではないような気がするんだ。……これをきみ流に言うと、ぼくはぼくの周囲の偽映鏡の照り返しを受けてそれを反映しているだけで、自分の映しとったものは一つとして外面に出していないような気がするんだ。少なくともいまのところ……」
「その、きみの周囲の偽映鏡っていうの、いったいだれのことなんだ?……雅子さんのことかい? それとも雅子さんの実家のことかい?」
吉本は籐椅子《とういす》の中にほとんど仰向きになるほど深々と埋まって、微笑を含みながら言った。
「そう具体的に挙げろと言われちゃ、なんにも言えないがね。きみが偽映鏡の話をするから、ぼくもそれを譬《たと》えに使っただけで……」
永峯もそう言って、今度はまともに吉本の顔を見ながら爽《さわ》やかに笑った。
そこへ、雅子が女中に果物やサイダーなどを持たせて出てきた。彼女は清楚《せいそ》に薄化粧を刷《は》いて、いっそう奇麗になっていた。
「さあ、どうぞ、吉本さん」
彼女はそう言って、彼らのコップにサイダーを注《つ》いだりした。秋川の妹であったころに比べると、彼女はいかにも若妻らしい淑《しと》やかさを見せていた。
「なにも構わないでください。それよりも、雅子さんもぼくらの仲間に入っちゃどうです?」
「え、入れていただきますわ」
彼女は明るく微笑みながら傍の椅子に腰を下ろした。
「永峯! それできみはいったい、いまどんなことをしているんだ?」
「いまは搾取階級なんだ」
「勤めているんだろう? いったい、何をしているところなんだい?」
「これさ。こんなものを拵《こしら》える会社の事務所なんだ」
永峯は爪《つめ》で磁鉄の灰皿を弾《はじ》いてみせた。灰皿は金属的な余韻を引いて鳴った。
「ばかに頑丈なもんだね。売れるのかね?」
「売れるには売れるんだが、どうもその遣《や》り口《くち》が面白くないんでね。いわゆる、きみのいう偽映鏡なんだ。たとえ一万円の儲《もう》けがあっても、決してそれだけには映してみせないんだから。われわれの目から見ると、偽映鏡も甚だしいもんだよ」
「偽映鏡の話はよそう。雅子さんの前で偽映鏡の話をするのはいけない」
「あら、わたしに聞かされないお話なんですの?」
「雅子さんは偽映鏡を知っていますか?」
吉本は微笑みながら言って、磁鉄製の灰皿をしきりに弄《いじ》っていた。
「知っていますわ。あの、変に歪んで映る鏡なんでしょう?」
「吉本! きみこそ偽映鏡に取り憑《つ》かれているんじゃないか? さっきから偽映鏡の話ばかりしているじゃないか? それに、最初に発作を起こしたときも偽映鏡の前に立って、じっと見詰めていたそうじゃないか?」
「ぼくにはあの鏡で、非常に面白く考えられるんだ。あの鏡の中の世界を考えてみ
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