たまえ。たとえばぼくがこうして……」
吉本はそう言いながら、重い磁鉄の灰皿を持って籐椅子から腰を上げた。
「……この灰皿はばかに重いね。……いいかね? ぼくがこの灰皿をこうして……」
吉本はその灰皿を高く持ち上げながら言った。
「こうして、ぼくが、いいかね?」
「おい! きみっ!」
彼は永峯の額を目がけてその灰皿を打ち下ろしながら叫んだ。
「こうしてやるのさ!」
「あっ!」
永峯はそこへどっかりと倒れた。彼はその頑丈な磁鉄の灰皿のために、前額部を完全に割り砕かれていた。
「吉本さん! あなたは……あなたは……」
雅子は恐怖に顫《ふる》えながら叫んだ。
「雅子さん! あなたは、あなたのいちばんに愛していた人を殺したんですね。あなたは永峯を殺してしまったんですね」
「まあ! 自分が殺しておいて、何を言うんです!」
「世の中の偽映鏡がどんな風に映そうと、雅子さんが自分のいちばんに愛していた男を殺したことに違いないはずだ」
「まあ! この人は!」
「雅子さんはぼくのいちばんに愛していた女だ。永峯はぼくのいちばんに愛していた男だ。その永峯が殺されてしまったのだ。……自分がいちばんに愛していた人間が、自分の目の前で他人に殺されるのを見詰めているなんて、そして、どうにも応援のしようがないなんて、実際、こんなたまらない気持ちはない!」
吉本はそれだけ言うと口を噤んで、怪訝そうな目で雅子の顔を見詰めながら静かに頭を振りはじめた。
「吉本さん! あなたは永峯を恨んでいたんですか? なぜわたしを憎まなかったの? なぜあなたを裏切ったわたしを殺さなかったんですの? 殺してください! わたしを殺してください」
彼女は叫びながら、吉本に擦り寄っていった。彼女は涙さえ流しはしなかった。あまりに突然な出来事のために彼女はひどく昂奮しているだけで、自分の感情を悲しみにまで持っていくことができずにいるのだった。
7
前額部を割り砕かれて死んだ永峯の死体が取り片づけられると、吉本はすぐに病院に入れられた。
彼の発作的な行動は、この先どんなことをするか分からないからである。――そして永峯と吉本と、一人は死んでいき、一人は病室の中で廃っていった。
死んだ者はそれでいい。永峯の苦悩と恨みと、彼のすべての感情が決して彼の死体のうえに残っているのではないのだから。――彼の残していった感情をもっとも濃《こま》やかに鮮明に受け取っておいたのは雅子であった。そういう意味で、雅子はもっとも哀《かな》しい恨みの中にあった。そして、雅子はあの時に吉本が最後に言った言葉をよく思い出した。
「自分のいちばんに愛していた人間が、自分の目の前で殺されるのを見詰めているなんて、そしてどうにも応援のしようがないなんて、実際こんなたまらない気持ちはない!」
雅子はその言葉を、あの時は出任せの言葉として、しかも反語的な皮肉な言葉として、ただわけもなく踏みにじってしまったのであったが、いまにして思えば、雅子は胸を抉《えぐ》られるような真理をその中に感じた。そして、雅子はそれを吉本が自分に投げつけた皮肉な反語としてではなしに、吉本の胸の底から湧《わ》いてきた血の通っている言葉として受け取ることができるような気がした。吉本の、いちばんに愛していた女が雅子であり、いちばん愛していた男が永峯であったということを、彼女は充分|頷《うなず》くことができるのであったから。
永峯がその死に際に、自分のうえに残していったいろいろの感情を、雅子はおりおり自分の胸に掻き立てて吉本を憎み恨み、復讐《ふくしゅう》を企ててみることさえあった。その復讐の対象者が病院の中で廃りかけていることをふと思い出しては、惨めな哀しみのどん底へ突さ落とされてしまうのであった。そして、彼女を悲惨な感情のどん底に突き落とすものはただそればかりではなかった。彼女が生まれた家の家柄であり、彼女の属している階級の伝統であった。
雅子の実家の家柄は、親の意志の加わらない結婚をした者がその結婚を機縁としてどんなに不幸な環境に陥っていこうと、もはやそれは許すべきでないという掟《おきて》の尾をいまだに引いている。彼女はその伝統的な古い尾の中で、自分の生活を自分で支えていかねばならないような立場に置かれていた。そして、彼女の属している階級は一度結婚をした女性がその夫を失ったのちに、再婚によって幸福を得るというようなことはほとんど絶無と言ってもいいような習わしの中に横たわっていた。――雅子は幸福を失ってしまっていた。彼女の前途には、彼女の見渡すかぎり黒い幕が重々しく垂れていた。彼女はそれを見詰めながら、自分自身の苦悩に疲れ切って溜息を吐《つ》くのが常であった。
死んでいった者はそれでいい!――彼女のしばしば呟《つぶや》くこの言葉の中には、自分もあの時に一緒に殺されてしまったほうがよかったという感情が多分に含まれていた。
しかし、雅子は病院の中で心臓を腐らしている吉本をただに恨み憎んでいるのではなかった。
――最近の彼女の吉本についての思い出は、たいてい彼を哀れむ感情に変わってきていた。自分と同じように、不幸だけを自分のものとして生き残っている前途の真っ暗な人間の、新鮮な空気に触れることのできない蛆《うじ》の湧きかけている心臓をそこに見いだした。
ことにも雅子は、発作症状から覚めたときの吉本の感情と意識とをとてもたまらないものとして感じた。
発作に襲われている間は全然意識を失っているのだから、感情を持たない人間として、死人にも同様になんらの同情も要さないわけなのだが、覚めているときの束縛感を思うと彼女は涙が出たりした。――そして、それが自分に発しているのだと思うと、彼女はわけてもたまらない感情に襲われるのであった。
気が狂うまで自分を愛してくれるなんて、世界じゅうにあの人ほど自分を愛してくれた人はいないのだ!――そういう思いは彼女をひどくセンチメンタルにした。それは三か月あまりの同棲《どうせい》から受け取っておいた永峯の愛情をさえ乗り越えることがあった。
彼女はときにはまた、彼らがあの時に話していた偽映鏡のことを思い出した。
あの場合、偽映鏡という言葉が何を意味していたのか彼女には一つの疑問であり、ただ一つの好奇的な対象でもあった。
彼女はそしてしばしば、病院の中の吉本を見舞ってやりたいという感情に揺り動かされるのであった。
――恋というにはあまりに哀しい暗さを持った感情! 友情という代わりに、好奇的な冷たさを持った愛情をもって。
8
空が青く冴《さ》えていた。
吉本は長く伸びた髭《ひげ》の中に微笑を湛《たた》えて、雅子を迎えた。
「どうなんですか? その後は……」
雅子は吉本の目を見詰めながら言った。彼の目は髑髏《どくろ》のように、痩《や》せた眼窩《がんか》の奥で疲れていた。
「そろそろもう治ろうと思っているんです。発作を起こすなんて、そんな馬鹿《ばか》らしい真似《まね》をする必要はなくなったようですから」
「まあ! ではあなたは、何か必要があってあんな真似をしていたんですか?」
雅子は驚いて低声《こごえ》で叫んだ。
「世の中の偽映鏡は、ぼくをどんな風に映しとっていたんですかね?」
「偽映鏡って、いったいどんな意味なんですの? あなたと永峯とあの時もそんなお話をしていらっしゃったけど、わたしには分かりませんでしたわ。どんな意味なんですの?」
「ぼくは雅子さんがぼくを見舞いに来てくれるとは思わなかった。雅子さん! あなたはぼくをどうして憎まないんです? どうして恨まないんです? それとも皮肉なんですか?」
「吉本さん! あなたはどうしてそんなことをおっしゃるの? あなたはいまなんでもないんでしょう? 発作を起こすことだって、ほとんどなくなっているんでしょう?」
「必要がなくなったんです。ぼくは永峯という偽映鏡を打ち砕くのが目的じゃなかったんで、雅子さんという偽映鏡を造り替えるのが目的だったから」
「わたしには分かりませんわ」
「ぼくのいちばんに愛していた人は、雅子さん、あなただったんです。それは知っていますね。同時にぼくのいちばんに憎んだ人もあなただったんです。しかし、偽映鏡というやつはおかしなやつだ。世の中のものをなんでも歪めて映しているんだ。あの偽映鏡め! そして、ぼくにとうとう病人になることを教えやがったんだ。いや! 病人の真似をすることを教えやがったんだ。あの偽映鏡め!」
吉本はそれだけを、叫ぶようにして言って、俯《うつむ》いてしまった。
「吉本さん! あなたはわたしを悲しませようと思って、永峯を殺したんですの?」
「あなたはぼくを愛しているんですか? 憎んでいるんですか?」
「わたし、お気の毒に思っているだけですわ。憎んでいて見舞いに上がるわけはありませんもの」
彼女はそんな風に言いながら、持ってきた菓子などを風呂敷包《ふろしきづつ》みの中から取り出した。
「ぼくがあの偽映鏡に、病人になることを教えられたばかりじゃないんだね。あの偽映鏡め、いろいろなことを知っていやがる。雅子さんは世の中を偽映鏡に譬えて考えたことはないんですか? 一度考えてごらんなさい。面白いから。……ぼくを病人だなんて……だれが……」
吉本は長く伸びた髭の中で冷ややかに、寂しそうにして微笑んだ。
底本:「恐怖城 他5編」春陽文庫、春陽堂書店
1995(平成7)年8月10日初版発行
入力:大野晋
校正:曽我部真弓
1999年5月24日公開
2005年12月24日修正
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