って来た。なんらそのきっかけになる事件がないだけで追放することのできずにいた人間が、狂暴な発作を起こすようになったのであるから。
 吉本は人事係の前に呼び出された。
「きみは近ごろ、少し具合が悪いそうじゃないかね? いったいどんな風なのかね?」
 こんな風に人事係は言った。
「別に大したことはないんです」
「きみは大したことがなくても、一緒に働いている者はずいぶん迷惑らしいからね?」
 微笑みながら人事係は言った。
「少し工場を休んで、静養してみてはどうだね? 取り返しのつかないようなことになると、あとで後悔してみたところで仕方がないから……」
「それはそうですが、ほくはいますぐ工場を休むとなると、生活ができないんです」
「静養するようだったら、工場のほうから幾らか金を出すから、まあ、ゆっくり静養するんだね。そして、回復したらまた来たらいいじゃないかね?」
「しかし、大したことはないんですよ。ただこうして話しているうちに、なんかこう……」
 吉本はそう言いながら、人事係の机の上からインク・スタンドを取ってそれを手にしたかと思うと、人事係の頭部を目がけて投げつけた。
「おいおい! 何をするんだ? 冗談はよせ、冗談は!」
 麻の白服をすっかりインクだらけにされて、人事係はうろたえながら言った。
 しかし、吉本にしては決して冗談ではなかったのだ。彼は静かに頭を振りながら、怪訝そうな目でじっと相手の顔を見詰めているのであった。
 そしてとにかく、吉本は幾らかの金を貰《もら》ってその鉄管工場を追い出されていった。

       4

 吉本が郊外のとある丘の上に永峯の家を訪ねていったのは、彼が工場を追い出されてから約一週間ばかりの日が経《た》ってからであった。
 永峯がそこに、ある一人の女性と家を持ったのはひどく突然であった。
 彼の友人のだれもが知らずにいたほどで、永峯ともっとも親しかった吉本でさえ、一か月あまりも日が経ってから、ある偶然のことで知ったほどであった。――そういう意味から、突然というよりも、むしろ秘密にされていたというべきであった。少なくとも、吉本の受けた感じは秘密なプログラムであった。
 鉄管工場の人たちが観察しているように吉本が憂鬱《ゆううつ》になったのは、永峯が彼らを裏切って行方を晦《くら》ましたからではなかった。――正確に言うと、永峯の裏切りに対して吉本が憂鬱になりだしたのは、行方を晦ましていた永峯を発見したその日から始まっていた。――というのは、実は永峯の行方を見失うと同時に、吉本はある一人の女性の行方をも見失ったからであった。
 吉本は、自分から同時に姿を晦ましていったこの二人の友達を、まず、その秋川雅子《あきかわまさこ》という女性の行方から捜しにかかったのであった。
 最初に、吉本が中学校からの友人、秋川の妹の雅子を知ったのは、彼が高等学校に入ってから間もなくのことであった。そして、吉本はやがて秋川の妹の雅子をひどく愛しだしたのであった。が同時に、永峯もまたそのころから彼女を愛しだしていることを知ったので、彼は自分の愛情を結婚に向かって進めることをやめてしまったのであった。親しい友人の間で彼女を奪い合うというようなことがいやだったからでもあったが、本人の彼女の態度がだれのほうをより多く愛しているのか、どうしてもはっきりとしなかったからでもあった。
 そして、彼らは自分たちのほうからも、なるべく彼女のことを忘れようと努めた。彼らが工場へ入って労働運動というような仕事に身を投げ出したのも、ある意味ではその積極的な一つの表れということができた。
 しかし、彼らはやはり、容易に彼女のことを忘れることができなかった。
「おい! 秋川のところへ行ってみようじゃないか。秋川はぼくらとは階級が違うから、思想的に立場が違うから、仕事は一緒にやっていけないが、友人として、その友情だけは続いているのだから……」
 彼らはそう言って、よく秋川の豪壮な邸宅を訪ねていった。そして、彼らの共通な友情は秋川のうえに続けられていくと同時に、妹の雅子のうえにも同じように続けられていた。
 そんな風にしているうちに、永峯が突然どこかへ姿を晦ました。吉本はなにかしら片腕の自由を失ったような寂しさから、ほとんど毎晩のように秋川を訪ねていくようになったのであったが、彼はふと、妹の雅子の姿がいっこうに見えないことに気がついた。
「雅子さんはどうしたんだね? 少しも見えないね」
 吉本はとうとうこんな風に訊いた。
「雅子は恋をして、この家《うち》を出ていってそのまま帰ってこないんだ。たいがいの見当はついているんだが、ぼくがわざと捜しに行かないんだ。父や母はいろいろ言っているんだけど、ぼくの考えでは、彼女の自由を束縛するわけにはいかないからね」
 秋川は
前へ 次へ
全8ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
佐左木 俊郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング