、きみの知っている人間で、引き取っていって保護を加えるというのなら、そりゃあ引き渡すがね。しかし、どうも意識を失っているというような点もあるから、よほどその、気をつけないというと……」
「吉本《よしもと》! いったいどうしたんだよ。え? しっかりしろよ」
茶色の作業服は、青い作業服の肩を叩《たた》きながら言った。青い作業服の吉本は自分で自分が分からないらしく、首を傾けて考え込むようにした。
「本当にしっかりしなきゃ、駄目じゃねえか?」
茶色の作業服はもう一度、吉本の肩を叩きながら言った。しかし、吉本はやはり半ば夢を見ているというような具合であった。群衆がその周りから口々に喚《わめ》き立てた。
「いったい、その神経衰弱になった原因というのは、どんなことなんだね?」
巡査は厳粛な顔をして、茶色の作業服に訊《き》いた。
「友達関係からなんですがね。何か深い約束があったとみえて、まるで兄弟のようにしていましたっけ、その友達の永峯《ながみね》ってのが、約束を反古《ほご》にしたらしいんですよ」
「その約束っていうのは、どんなことか分からないのかね?」
「二人とも大学を中途で退《ひ》いてきた人たちで、約束をしたのは大学にいるころらしいんで、わたしたちにはよく分からないんですが、他人《ひと》の噂《うわさ》ですと労働運動らしいんですよ。なんでも、二人で一緒になってわたしたちの工場の中へ組合を作ろうっていう相談をしていたらしいんですが。そして纏《まとま》りかけていたんですが、その永峯って男はどういうものか急に気が変わってしまって、工場を出ていってしまったんです。それで組合のほうもおじゃんになってしまったし、兄弟のようにしていた友達がいなくなって寂しくなったんですね。それから急に鬱ぎ出したんですから」
「しかし、それにしても偽映鏡を見ているうちに気が変になるというのは、ちょっと不思議だがな。とにかく、じゃ、気をつけて連れていってくれ」
巡査はそう言って、そのままそこから群衆の中へ割り込んでいった。
「そいつは、二人組みの詐欺だろう」
群衆の中からそんな声が起こった。そして、群衆は潮騒《しおさい》のように崩れだした。
「吉本! 本当にしっかりしてくれ」
茶色の作業服はそう言って、吉本の手を引いて群衆の中へ入っていった。
2
鉄管工場の職工たちはひどく吉本に同情した。彼はその後も、幾度かその発作的症状に襲われつづけていたから。
しかし、彼の発作的症状はたいてい、すぐ回復してしまうのが常であった。
彼の発作的症状は夕立のように知人の間を騒がせて、その日一日は頭を振りふり意識を失ったもののようにしているのであるが、翌朝になるともう何事もなかったもののようにして、いつもと同じように工場へ出てくるのであった。
「吉本! あんな奴《やつ》のことはもう忘れてしまえばいいじゃないか?」
こんな風に工場の人たちは言った。
「女のことででもあるなら、いつまでも忘れられねえってこともあるだろうが、ほかのことと違って、そんな裏切者のことをいつまでも思い切れずにいちゃ、運動なんかできないじゃないか?」
鉄管工場の中の同志たちは、そんな風にも言った。
吉本はすると、いくぶんか顔を赧《あか》らめるようにしてにやにやと微笑《ほほえ》みながら、昨夜の夢の中の出来事をでも思い出すようにして言うのであった。
「自分でもそう思っているんだがね。しかしどうにもならないんだ。だから、永峯のことを思い詰めていると発作が起こるというのじゃなくて、永峯の奴がおれの頭をそんな風に作り替えていったんだ。ぼくだってもう、永峯のことなんか忘れているんだから」
「永峯の奴め、仕様のねえ奴だな。工場の中の組織は作り替えやがらねえで、吉本の頭なんか変に作り替えやがってさ」
職工たちはそんな風に言ったりした。
「しかし、もう大したことはないんだ。すぐよくなるよ」
吉本はこう言って、平常は少しも変わったところがないのだが、ときには、そう話している途中から発作に襲われることがあった。
発作に襲われるときの吉本は、その直前まで少しも変わった様子がなくていて、突然に相手の頭部を殴りつけるのが常であった。
「なんだえ? きさまは? 冗談はよせ!」
冗談をしているのだと思って吉本の顔を見ると、彼の顔はもう変に緊張してしまって、静かに頭を振りふり怪訝そうに相手の顔を見詰めているのであった。
「なんだえ? 吉本! 冗談じゃねえのか?」
しかし、吉本はその時にはもう何事も判別がつかぬらしく、そしてそれ以上には狂暴になるらしくもなく、ただじっと相手の顔を見詰めているだけであった。ときどき静かに頭を振りながら。
3
鉄管工場の経営者側にとっては、もっともいい機会がや
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