の煙草屋の主人が、こう横から口を入れた。
「前には、毎朝きっと二人で出かけていましたがね。同じ年齢《とし》ごろの、この若い者よりは背の高い眼鏡をかけた若い者と二人で。……それが、いつのころからか一人になったんですが、それでも毎朝きっとわたしのところで煙草を買っていくんですよ。……そうですね、一人になってから一か月以上にもなりますかな? きっと、わたしはこの先の鉄管工場へ行っているのに相違ないと思うんですがね。しかし、今朝も煙草を買っていったんですが、今朝はなんでもなかったようでしたよ」
「なにしろ、そこの鏡の前に立ってしばらくじっと鏡を見詰めていましたよ。きっとそのうちに、気が変になったんだと思うんですよ。その鏡はそんな風に、何もかも変に映る鏡なもんですから。……鏡の中の世の中が本当なのか? 現実《ほんと》の世の中が本当なのか? ちょっと変な気がしますからね。それで、この男もやっぱり気が変になったもんですね。がらがらとこの店のものを手当たり次第に投げ出したんですよ。で、宅の若い者が止めようとして出ていったら、押さえもしないうちに鼻柱を殴りつけたんです」
「鼻血が出ただけで、大したことはないんだな?」
「ええ、こっちは別に……」
「じゃとにかく、本署まで連れていって調べるとしよう」
 巡査はそう言って、青い作業服の腕を掴んだ。青白い顔の男は不思議そうに首を傾《かし》げた。反抗をしそうな様子などは少しもなかった。
「さあ! 先に立って歩きたまえ」
 巡査は腕を掴んで前へ押しやるようにした。男はなにかしらまったく意識を失っているもののように、よろよろとした。群衆がその周りで急にどよめいた。
「旦那《だんな》! ちょっと待ってください」
 潮《うしお》のようにどよめきだした群衆の中から、茶色の作業服を着た中年の男が叫ぶようにして巡査の前へ出ていった。
「なんだ? きみはこの男を知っているのかい?」
 巡査は立ち止まって言った。
「はい。同じ工場に働いている男なもんですから。……旦那! できることなら、わたしに預けてくださいませんかな。この男は気が変になったっていっても、神経衰弱がひどくなったんで、大したことはないんで……工場の者はみんなよく知ってるんですが、あることからひどく鬱《ふさ》ぎ込んで、まあ、神経衰弱がひどくなったんで……」
「別に罪を犯しているというんじゃないから
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