。――それは当然おまえのものなんだから、安心して取ってお置き。」
彼は威厳をさえ示していた。
「そうだろう? そのためにおまえは、一度厭な思いをすればいいところを、二度しなければならないことになる。そんな馬鹿なことって無いんだ。――おまえはそう思わないかね?」
「…………」
「儂《わし》は、自分のやっていることを、決していいことだとは思っていないが、決して悪いことだとも思ってはいない。――働こうたって、仕事はありゃしないんだし、食って行けなければ、持っている者からもらって来るより仕方が無いじゃないか? 此方《こっち》は、働くのが厭だというんじゃないんだから。――おまえだって、平気そうな顔をしてそんなことしてるけど、決して平気じゃあるまい? 別のちゃんとした仕事をして食って行ければ、そうしたいのだってことあ、儂はちゃんと見抜いているんだが……」
そのとき、誰か、あわただしく玄関へ飛び込んで来た。腹掛けをして背広を着ている青年であった。
「すみません。僕をちょっと隠してくれませんか? 追い掛けられているんです。」
「追い掛けられている? 仕様がないじゃないか。そんなへまなやり方じゃ。――まあ、あがって、押し入れにでも這入っているさ。」
「同志! 有り難う!」
青年は泥靴を脱ぎ捨てて風呂敷包みを持ったまま押し入れの中に飛び込んだ。彼は泥靴で畳の上に大跨《おおまた》の足跡をしるしてから押し入れの前に火の無い火鉢を押してやった。そして房枝に雑巾を持たせて掃除を仮想させ、自分は火鉢の前に坐った。間もなく白麻《しろあさ》の背広の男が玄関を覗《のぞ》き込んだ。
「おいッ! てめえも、他人《ひと》の家の座敷の中を泥足で駈《か》け抜ける気なのかい?」
彼は怒鳴りながら立って行った。
「いや。――今の奴は、駈け抜けて行きましたか?」
「ふざけやあがって、この泥を見てくれ。」
「――それで、どっちへ行ったでしょうね?」
「そんなこと、知るもんか。いったい、てめえら、なんてまねをしていやがるんだい? ふざけやがって。」
「…………」
男は一枚の名刺を彼に渡した。
「あ、そうですか。それはそれは……」
男はすぐ出て行ってしまった。彼は微笑みながら火鉢の前に帰った。
「帰ったよ。出ても、もう大丈夫だ。」
「どうも、おかげさまで……此方《こっち》だって、本当に食えないからやっているのに……」
青年は押し入れから出て来てそこへ坐った。
「一体、何を掻《か》っ払《ぱら》ったんだね?」
「え? 掻っ払いじゃありませんよ。まさか、そんなことまではしませんよ。」
「泥棒したんじゃないと言うのか?」
「宣伝をしていたんです。われわれ失業者、どうにもならないもんですから、ビラをまいていたんですよ。そのうちにビラが無くなったんで、僕は本部ヘビラを取りに行って来たんです。来て見ると、同志は皆んな検束されていて、僕がそこへ帰って来たもんだから……」
「食えないんなら、そんなことをするより、持っているもののところへ行って、取って来たら、どんなもんだね。」
「泥棒ですか?」
「まあ、泥棒だね。」
「併し、失業者がみんな全部泥棒になったって、社会の組織は変わらないですからね。社会の組織が変わらない以上、失業者は後《あと》から後からと出て来て、それがみんな泥棒になったら、いったい、社会はどうなりますかね?」
「じゃ、食えないものでも、泥棒しちゃ、いけないと言うのかい?」
「さあ? まあ、これを読んでおいて下さい。僕は急いでいますから。――働きたいけれども、仕事が無いから、食って行くためには泥棒だっていいじゃないかというのでしたら、まあこれを読んで、もう少し考えて見て下さい。」
青年は風呂敷包みの中から五六枚のビラを掴《つか》み出しながら言った。
そしてそれを彼に渡して急いで戸外に出て行った。
[#地から2字上げ]――昭和五年(一九三〇年)『文学時代』八月号――
底本:「佐左木俊郎選集」英宝社
1984(昭和59)年4月14日初版
入力:大野晋
校正:柳沢成雄
1999年9月10日公開
2005年12月19日修正
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