街底の熔鉱炉
佐左木俊郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)小母《おば》さん
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)玄関|傍《わき》の三畳
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》る
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一
房枝の興奮は彼女の顔を蒼白にしていた。こんなことは彼女にとって本当に初めてであった。その出張先が自分の家と同じ露地の中だなんて。彼女は近所の侮蔑的な眼が恐ろしかった。しかもそれが同じ軒並みのすぐ先なのだから。彼女はすぐそのまま自分の家に帰って行く気はしなかった。彼女は日頃から親しくしている小母《おば》さんの家へ裏口から這入《はい》った。小母さんの家は、雇われて行った家の一軒置いて隣になっていた。小母さんは内職の造花を咲かせていた。
「小母さん! お隣のお隣は、何を職業《しょうばい》にしているの?」
「お隣のお隣? 楽そうだろう? 泥棒をしているんだって。」
「泥棒? 厭《いや》あな小母さん! そんな職業があるの? 泥棒だなんて……」
房枝は微笑《ほほえ》んで袂《たもと》で打つ真似《まね》をした。
「そりゃ、不景気だもの、何だって、出来ることはしなくちゃ。泥棒だって何だって、食って行ける者はいいよ。」
「でも、少しおかしかない? 泥棒だなんて……」
「職業《しょうばい》なら、何もおかしいこと無いじゃない? 食って行くためなら、どんなことだって、しなくちゃならない時世なんだもの。」
真面目《まじめ》な顔で小母さんは造花を咲かせ続けた。紫の花。褪紅色《たいこうしょく》の蕾。緑の葉。緋《ひ》の花。――クレエム・ペエパァの安っぽい造花であった。
「それはそうだけれど、そんなことをしていて掴まらないのかしら?」
「そこが職業《しょうばい》だもの。掴まってばかりいたら、職業にならないじゃないの。小父《おじ》さんなんかも(掴まらなけりゃあ、やるがなあ……)って言っているんだけど、小父さんのような野呂間《のろま》なんかにはとても出来やしないんだよ。」
「でも、随分変な職業《しょうばい》もあるもんね。そりゃ、わたしの職業なんかも、随分変なものには違いないけど……」
「働いてお金を取って来る分に、何だって同じことさ。自分の好きなことばかりしていちゃ、お金にならないんだから。」
「それでは、わたしなんかも、肩身を狭くしていなくたっていいわけね。――じゃ、威張って帰るわ。」
房枝は赤い緒の下駄を持って、裏口から表玄関へ座敷の中を横切った。
「もう帰るの? 遊んで行けばいいのに……」
「こうして、小母さんの家から出て行くと、誰が見たって、小母さんのところへ遊びに行っていたのだと思うでしょう? ねえ!」
彼女は格子戸《こうしど》に掴まりながら朗かに微笑《ほほえ》んで出て行った。
二
房枝は三日過ぎると、また同じ家に雇われて行った。その家は四十前後の独身の男の世帯であった。洗濯物が二三枚あった。家の中は三日前に掃除して行ったままで別段に汚れてはいなかった。併し彼女は一通り形式だけの掃除をした。
「休んでおいで。掃除なんかどうでもいいんだから。」
彼は腹匐《はらば》いながら言った。
「まあ、そこへお坐り!」
読みかけの雑誌を伏せて彼は命令的に言った。
「でも、ちょっと、掃くだけでも……」
「別に汚れてないんだから、いいんだよ。まあ、お坐り、そこへ。」
「では、これを置いて来ますから。」
房枝は箒《ほうき》を片付けてから、身繕《みづくろ》いをして二階へまたあがって行った。彼女は男から三四尺ほど離れて坐った。そして薄く白粉を掃いた顔をうちむけた。
「房枝さん! ――房枝さんって名だったね? 一昨昨日《さきおととい》、あの婆さんから、幾らもらったかね?」
「五円でしたわ。」
「五円? じゃ、儂《わし》が渡した半分も、おまえの手には渡ってやしないんだね。――本当に五円だけなんだねえ?」
「え。本当ですわ。」
「あの婆め!そんなぼり[#「ぼり」に傍点]方ってあるもんか。――儂《わし》は出張して来たばかりで、手許《てもと》に少し余計にあったもんだから、拾円でいいというのを、おまえに余計やってもらおうと思って、拾五円やって置いたんだ。それを五円きり渡さないなんて……」
憤慨したようにして彼は言った。
「房枝さん! どうだ! これから、あの婆さんを仲に立てないで、直接にしようか?」
「でも、紹介してもらっていて、そんなことしちゃ……」
「悪いことなんかあるもんか。――じゃ、とにかく、今度来るとき、儂が一緒に来るように言ったからって、あの婆さんを
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