し父は機関車の危険を怖れ、翌十七の晩春、母危篤の虚を構えて郷家へ呼び戻された。――再び鬱々《うつうつ》の日来たり、約一年半、父や叔父の読み古した軍記、文学、講談などの雑誌に埋れて夢を見続けていた。
十八の秋に上京。今村力三郎法律事務所に寄食。私《ひそか》に文学を志していたのであったが、一日も早く父母の生活を支えねばならぬという立場から、奨められて電機学校に籍を置く。電機学校にはアドバンス・コピーというものがあり、教師の講義を直接に聴くの必要はなく、通学の時間を毎日一ツ橋図書館に利用し、学校の方は試験だけを受けて進級していた。
約二カ年にして卒業に近く、電機技術師になってしまうことを怖れていたころ、偶然にも父の危篤に接して郷家に戻り、父母の生活を助くべく、郷里の小学校に代用教員として通う。
この頃から、文学への熱望甚しく、再び今村力三郎氏に寄食し、国民英学会、国漢文研究所、日本大学などを転々して、比較的文学の道に直接とする学科の聴講に努めた。――するうち、肋膜炎にやられ、医師から、約二カ年間の座食を命ぜられ、徹底的に文学書を熟読するの機会を得た。健康恢復と同時に、自らの働きをもって
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