ところで、いまの状態じゃ無駄じゃございませんか? ……それよりも……」
「無駄かもしれん。しかし、わしにはわしの考えがあるで、さっそく拵えてくれ」
 前田氏は怒ったようにして言って、手にしていた葉巻の灰を落とした。
「……では、職工のなんでしたら、安物でいいわけですなあ」
「むろん安物でいい、一日で済むものだからなあ。だが、同じ色で、同じ模様で揃《そろ》えてもらいたい。それから同じ仮面を七十、同じ草履を七十。まあ、同じ仮装を七十人分揃えてもらいたいんだ。大急ぎでなあ」
「どんなに急がしても、五、六日はかかると思いますが……」
「それは仕方がない。ただ、その出来上がる日が決定したら、すぐ工場のほうへ、何月何日《いついつか》に早朝から花見をするということを言ってやっておいてくれ」
 前田氏はそう言って、何事かを深く考え込んだ。
 前田鉄工場は前田弥平氏の単独経営で、小さなものだった。しかし、そこには前田弥平氏の専制的な独裁が布《し》かれていた。彼の一存で、その工場の待遇制度はどんなにでも変えることができた。それだけに、こんどの争議は解決に骨の折れる感情の縺《もつ》れになってきていた。
 しかし、またそれだけに、前田弥平氏の魔術が案外うまく成功するかもしれなかった。――咲いている花を蕾として認めさせようという、彼の魔術、彼の奇術。

       3

 その時代の世相をもっとも敏感に受け取るのは青年である。無意識のうちに、彼はその敏感な全神経でその時代の世相を受け取っている。
 賢三郎《けんざぶろう》は養父のその計画を、秘《ひそ》かに笑っていた。いまの時代の空気の中に息づいている職工たちがお花見ぐらいの饗応《きょうおう》で、決してその要求を枉《ま》げるものでないことを彼は知っているのだった。そして、彼は養父の態度に対して反感をさえ抱いていた。
 賢三郎は、前田弥平氏の長女|弥生子《やよいこ》と婚約をしたころの賢三郎ではなくなっていた。婚約当時の賢三郎といまの賢三郎とは、全然別個の人間であった。彼はそして、弥生子との婚約を悔いてさえいた。弥生子を嫌っているのではなかった。弥生子の全生活を包んでいる空気を嫌っているのだった。それはもはや、好き嫌いの程度ではなく、彼の全人格を揺り動かして生まれた感覚であった。彼は彼の全人格をもって弥生子を嫌い、弥生子を包んでいる空気を否定していた。彼は早晩のこと、その養家を逃げ出そうとさえも考えていた。
 しかし、そこに一つの未練があった。専制的独裁はその掌《てのひら》の中の制度を、もっとも容易に変革することができるからである。掌を返すように、全然反対の制度へと、容易にそれを変革することができるからである。もし彼が、弥平氏の養子として前田鉄工場の支配権を継ぐなら、自分が全然否定しているところのその工場の待遇制度を、全人格的に肯定できる待遇制度へと変革することができるからであった。それを未練として、彼はその不快な空気の中に弥生子の将来の夫として止まっているのだった。
 賢三郎は養父弥平の前では、なにも言わなかった。言っても無駄だと思っているからであった。しかし、彼はその裏面では常に不平を持っていた。そして、自分の意見に耳を傾けてくれる者に対しては、養父弥平のとっている態度のいっさいを否定し、自分の意見を述べることがあった。その相手は多くの場合、書生の布川《ぬのかわ》であった。
 書生の布川は賢三郎とは、三つの年齢の差があった。しかし、布川は賢三郎ほど敏感に新しい時代の世相を受け取ることのできる青年ではなかった。彼はどことなく、感覚神経に欠けていた。その代わり、彼は燃えるような情熱をもっていた。彼は火の塊のような青年であった。そして、賢三郎を絶対のものとして信頼していた。信者がその神を信頼するようにして信頼していた。賢三郎の言葉は布川にとって絶対であった。燃えるような情熱をもって、賢三郎の言葉を実行に移そうとするような、布川はそういう青年だった。
「……行ってよく様子を見てきました。あなたの言うとおりです」
 鉄工場へ花見の仮装を運んでいってきた布川は、帰ってくるとすぐそう賢三郎に告げた。
「あなたの言うとおりです。お花見ぐらいでは、どんなことをしたって治まりません。悪くすると、あなたの言うとおり暴力が持ち出されそうです」
「やむを得ない。ああいう分からずやの親父《おやじ》には、当然テロリズムを示さなくちゃならないだろう。それは職工側にしたって、そんなテロリズムによらずに協調できればそのほうがいいに違いないが、相手が分からずやでは仕方があるまい」
「暴力? しかしこの場合、暴力なんかで、うまく治まるでしょうかね? だいいち、暴力なんというものは正しい方法じゃないのでしょう」
「方法としては正しくなくとも、あ
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