仮装観桜会
佐左木俊郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)靄《もや》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)工場主前田|弥平《やへい》氏
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)身を※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》いた
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1
靄《もや》! 靄! 靄!
靄の日が続いた。胡粉色《ごふんいろ》の靄で宇宙が塗り潰《つぶ》された。そして、その冷たい靄ははるかの遠方から押し寄せてくる暖かいものを、そこで食い止めていた。食い止めて吸収していた。
靄の中で桜の蕾《つぼみ》が目に見えて大きくなっていった。人間の感情もまた、その靄の中で大きくなっていく桜の蕾のようなものだ。街の人たちはもう花見の話をしていた。
靄が濃くなり暖かくなるにつれ、桜の蕾がその中でしだいに大きくなっていくように、人間の感情もまたその雰囲気の中でしだいに膨張する。前田《まえだ》鉄工場の職工たちの感情もまたそうだった。従前どおりに続いていく雰囲気の中で彼らの要求感はしだいに膨張して、弾《はじ》けようとする力を持ちだしてきていた。
彼らの要求! それは極めて簡単なものであった。そしてまた、それは極めて至当な欲求であった。季節が気温の坂を上るにつれ、花の蕾が膨張せずにはいられないように、彼らの生活もまた転がるに従って膨張していた。ある一つの細胞がその環境の中でしぜんに膨張していくとき、人工的ないかなる力もそれを抑えることはできない。もし、一つの蕾を枯らすことなくそのままの大きさに止《とど》めておくことができたら、それは魔術である。奇術である。時代の波に浮かべてある生活の舟から完全に加速度を奪うことができたら、これもまた魔術であろう。奇術であろう。魔術師ではない彼ら職工たちが、自分たちの生活の膨張と加速度とを自分の力でどうすることもできないのは、極めて当然のことであった。春になれば暖かくなり、花が咲く。それと同じような自然の成行きであった。
しかし、それを彼らの工場主前田|弥平《やへい》氏は全然認めてくれないのだった。彼のそういう態度は、花はもう散ろうとしているのに、その花を蕾として認めているようなものであった。
「そんなことを言ったって、一般に緊縮の時代じゃないか。こんな時に、そりゃあ無理というもんだ」
前田工場主はそう言うのだった。
しかし、彼らは決してその生活を膨張させようというのではなかった。現在の状態について要求しているのだった。それなのに、前田工場主は緊縮政策をもって、にべもなく彼らの要求を退けた。
「まあここしばらく、生活を緊縮することだ。実を言うと、工場の経費だって緊縮したいところなんだからなあ。まあまあ、できるだけ生活を緊縮して……」
「なにを? 緊縮しろ? 緊縮できるくらいならなにも言わねえや」
職工たちには、とうとう我慢のできない日が来た。
2
しかし、工場主の前田弥平氏はやはりそれが不安になってきた。奥深い部屋の隅に、春にもなれば春の陽光が射《さ》す。新しい時代に対して目を覆っている前田弥平氏の目の底にも、新しい時代の世相の影が映らずにはいなかった。その影の中に、新しい時代はいかなる姿で映っているか? それを見たとき、前田弥平氏はじっとしてはいられなくなってきた。
彼はいろいろと考えた。嵐《あらし》の暗雲を孕《はら》んで物凄《ものすご》いまでに沈滞した前田鉄工場! それに対していかなる手段を取るべきか? 彼はその対策に迷った。
しかし、ある一つの細胞は外部からのより大きい反対の力が加わらない限り、しだいに生育し膨張していくに相違ない。前田弥平氏が思い悩んでいる間に、嵐の暗雲はしだいに近づいてきた。前田氏はその時初めて、自然律を否定している自分に気がついた。
ちょうどその時、前田氏の広い庭園の一隅で五、六本の山桜が開きかけていた。
「よし!」
彼はその窓から、開きかけている山桜を眺めながら叫んだ。そして、彼はすぐ河本《かわもと》老人を呼んだ。河本老人は前田家の雑事のために、毎日彼の家へ通ってきている海軍上がりの老人であった。
「河本! すぐ花見の着物を注文してくれ。すぐだ!」
「花見の着物? それは珍しいことですね。しかしいろいろ種類があるでしょうから……」
「どんなんでもいい。どんなんでもいいんだ。とにかく、至急六、七十人分|拵《こしら》えさせてくれ」
「七十人分? 七十人分もどうなさろうというんです? お花見の着物などを?」
「職工どもに花見をさせてやるのだ。職工はたしか六十二、三人だったなあ?」
「しかし、職工に花見をさせた
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