いた。彼は早晩のこと、その養家を逃げ出そうとさえも考えていた。
しかし、そこに一つの未練があった。専制的独裁はその掌《てのひら》の中の制度を、もっとも容易に変革することができるからである。掌を返すように、全然反対の制度へと、容易にそれを変革することができるからである。もし彼が、弥平氏の養子として前田鉄工場の支配権を継ぐなら、自分が全然否定しているところのその工場の待遇制度を、全人格的に肯定できる待遇制度へと変革することができるからであった。それを未練として、彼はその不快な空気の中に弥生子の将来の夫として止まっているのだった。
賢三郎は養父弥平の前では、なにも言わなかった。言っても無駄だと思っているからであった。しかし、彼はその裏面では常に不平を持っていた。そして、自分の意見に耳を傾けてくれる者に対しては、養父弥平のとっている態度のいっさいを否定し、自分の意見を述べることがあった。その相手は多くの場合、書生の布川《ぬのかわ》であった。
書生の布川は賢三郎とは、三つの年齢の差があった。しかし、布川は賢三郎ほど敏感に新しい時代の世相を受け取ることのできる青年ではなかった。彼はどことなく、感覚神経に欠けていた。その代わり、彼は燃えるような情熱をもっていた。彼は火の塊のような青年であった。そして、賢三郎を絶対のものとして信頼していた。信者がその神を信頼するようにして信頼していた。賢三郎の言葉は布川にとって絶対であった。燃えるような情熱をもって、賢三郎の言葉を実行に移そうとするような、布川はそういう青年だった。
「……行ってよく様子を見てきました。あなたの言うとおりです」
鉄工場へ花見の仮装を運んでいってきた布川は、帰ってくるとすぐそう賢三郎に告げた。
「あなたの言うとおりです。お花見ぐらいでは、どんなことをしたって治まりません。悪くすると、あなたの言うとおり暴力が持ち出されそうです」
「やむを得ない。ああいう分からずやの親父《おやじ》には、当然テロリズムを示さなくちゃならないだろう。それは職工側にしたって、そんなテロリズムによらずに協調できればそのほうがいいに違いないが、相手が分からずやでは仕方があるまい」
「暴力? しかしこの場合、暴力なんかで、うまく治まるでしょうかね? だいいち、暴力なんというものは正しい方法じゃないのでしょう」
「方法としては正しくなくとも、あ
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