それを神田の青物市場へ曳いていくことにした。そして、その日の売上金を翌日の野菜購入費と生活費とに充て、そしてまた、その翌日の売上金のうちから次の野菜購入費を割き、生活費を割いてそれを繰り返していれば、それで二人の生活は当分の間どうにか保証されるわけであった。
しかし、青物市場には入場の時間が規定されてあった。そして、それに間に合わないと大変なことになるのだった。一台の野菜物を、みんな捨ててしまわなければならないことになるからであった。それは資金の流通を停滞させる恐ろしさではなく、資金を消滅してしまう恐ろしさであった。そのために、場所慣れた人たちはいくつもの予備道を考えておいた。第一の道がもし交通を遮断すれば、第二の道へ、第二の道でもまた何かの偶発事から交通を遮断するようなことがあればさらに第三の道へと、彼らは臨機応変に処置して入場時刻に遅れない方策を用意していた。
吾平爺にはしかし、まだなにもそういう用意がなかった。爺は努力一方で押すより仕方がなかった。始めたばかりでなにも知らないからであった。そのうえに、爺の場合は他の人たちよりもはるかに深刻であった。もし、交通遮断か何かで時刻に遅れることがあれば、爺の生活は今度こそペしゃんこだった。
4
吾平爺がその翌日、警察から釈放されてきたときには、荷車の上の野菜は残暑の陽《ひ》に灼《や》かれてすっかり萎《しお》れていた。爺はしかし、それをそのまま捨ててしまう気にはなれなかった。爺は力なく赤茶けたその野菜を曳いて、自分の家に帰っていった。
翌日は雨だった。しかし、吾平爺はその赤茶けた野菜物を曳いて青物市場へ出かけていった。だが、この夏以来の不景気のために、青物市場には新鮮な野菜物が氾濫していた。吾平爺の二日も陽に晒《さら》した赤茶けた野菜の売れるわけはなかった。爺は投げ出した。そして、その日の手間にもならないほどの金を握って吾平爺は帰らなければならなかった。
「荷車で一台曳いていって、手間代にもならねえなんて……」
しかし、どうにも仕方がなかった。そのうえに、吾平爺はただひと晩の拘留ではあったが、すぐそのあとで雨に叩《たた》かれたりしたのでひどく健康を損なっていた。また、たとえ健康を損なわないにしろ、爺はもう寝ているより仕方がないのだった。ただ一つの資本であった一台の野菜を全部腐らせてしまったいまとなって、もはや次の野菜をどうすることもできなかった。
吾平爺は薄暗い小屋の中で寝て暮らした。最初は微《かす》かな風邪らしい熱で、寝るよりほかにすることがないから床に潜り込んだのであった。それがだんだんいけなくなっていった。そして、鶴代のお腹《なか》はひどく膨らんできていた。窖《あなぐら》のような小屋の中で、この不健康な親娘《おやこ》はもはやどうすることもできなくなっていた。一台の荷車を売ったその金が、わずかに二人の生命を繋《つな》いでいるだけであった。
5
しかし、吾平爺の病勢はますますいけなくなる一方だった。爺は何度も便を催した。そして、寝床の襤褸《ぼろ》の底で呻《うな》りつづけていた。最初は自分で便所へ立っていたのが、それさえできなくなってきた。鶴代がそれをいちいち始末しなければならなかった。
「お鶴! 済まねえ、済まねえ」
吾平爺はそう言っては呻りつづけていた。
「済まねえったって、どうにもならねえよう」
鶴代は励ますという気持ちからではなく、目を瞑《つぶ》るような気持ちで言うのだった。
「父《とっ》ちゃん! なんとかして医者を呼ぼうかね? なんならだれかに頼んで、いっそのこと避病院《ひびょういん》にでも入るようにしてもらったらどんなものかね?」
「おれ、苦しくて苦しくて、避病院にもなにも行かれねえわ。それより、水を一杯《いっぺい》飲ませてくんろ」
父親の吾平爺はそう言って、呻りつづけるのだった。
ちょうど、父親の吾平爺がそうして苦しんでいる最中だった。鶴代にひどい腹痛が来た。陣痛であった。
「父ちゃん! おれも腹が痛くなってきたよう。あう、痛くなってきたよう。父ちゃんのが伝染したのかもしんねえよう」
しかし、爺は呻っていてなにも答えなかった。
「父ちゃん! 痛いよう。あう、痛いよう」
彼女は叫びながら、のたうち回った。彼女はそのうちに目が昏《くら》んできた。そして意識が判然としなくなってきた。何か深い深いところへ落ちていくような気がした。
「こっちへ来う! こっちへ来う!」
遠くの遠くから、そんな声がするような気がした。しかし、彼女はそれから間もなく、なにも分からなくなった
鶴代が深い眠りから覚めたのは、その翌朝だった。足のほうに赤ん坊がしきりに泣いていた。そのためか、父親の呻り声は聞こえなかった。赤ん坊のほうへ近寄ろうとした
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