が、それもできなかった。
「父ちゃん!」
できるだけ大きい声でそう父親のほうへ声をかけようとしたが、腹に力がなくて、声は出なかった。
鶴代は仕方なくじっとしていた。そして父親の呻り声を聞こうとした。しかし赤ん坊の泣き声がうるさいだけだった。その泣き声をただうるさいうるさいと思っているうちに、彼女はまたうつらうつらとしてきた。
彼女が父親の死んでいるのを発見したのは、その翌日だった。しかし、彼女はまだ起きて戸外へ出ていくことはできなかった。それに、彼女の家はただ一軒、藪《やぶ》の中にあった。そして、彼女の家からいちばん近い農家まで行くのに、三、四町(一町は約一〇九メートル)はあった。
彼女が父親の死んでいるのを、自分の家からいちばん近いその農家まで知らせに行ったのは、それから三、四日も経《た》ってからのことであった。
6
吾平爺の死体は村役場の手で始末されることになった。死因は伝染病らしい疑いがあるからだった。その便所に多量の血便らしいものが捨てられてあったので、赤痢に相違ないというのであった。
しかし、村には火葬場がなかった。伝染病患者の死体を遠くの火葬場まで運んでいくわけにもいかなかったので、駐在所巡査と村役場の書記とが立ち会い、墓場の傍《そば》の大きな樫《かし》の木の下の空地で原始的な火葬を行うのが村の習慣であった。
吾平爺の場合はその日まで一度も医師の診断を受けていなかったのだから、したがってなんらの消毒法をも施されていなかったので、その死体の周りの襤褸いっさいもまたことごとく死体とともに焼き捨てられることになった。
同時に、吾平爺のその小屋は完全に消毒された。そして、赤い紐《ひも》がその屋敷の周囲に繞《めぐ》らされ、娘の鶴代は絶対に出入りを禁止された。もし、彼女が父親の病菌を持っていると、火葬も消毒も何の意味もなさないことになるからであった。
吾平爺の死体に点火されたのは、その日の夕方であった。死体の上に藁《わら》と薪《まき》とが積み重ねられ、幾缶かの石油を浴びせてそれにマッチで火を点《つ》けるだけのことであった。駐在所巡査と村役場の書記とは、点火してから三十分ばかりをその火に当たって帰っていった。そのあとに二人の人夫が残って、徹夜してそれについていた。
しかし、明け方になると、二人はその傍でうとうととまどろんでしまった。
「おい! おい! 眠っているのか? 大変なことになったぞ」
和尚が回ってきて、そう言って二人を叩き起こしたのは陽が出てからであった。二人は呆気《あっけ》に取られて、怪訝《けげん》そうに和尚の顔を見た。
「どうもお遺骨らしいものが、二人分あるように見えるんだが」
和尚は首を傾《かし》げながら言った。二人は驚いて立ち上がった。
「二人分?」
「どうも、二人分らしい」
和尚はもう一度首を傾げて、焼き場のほうへ向き直った。
焼き場は一坪ほどばかりが白い灰になっていた。そして、そこからはまだ細い煙が上がっていた。その中に爺の白い遺骨が少し腰を屈《かが》めた恰好《かっこう》で、雨ざれた枯木のように横たわっていた。――もう一人分の遺骨というのは、これは実に小さいものであった。吾平爺の遺骨の片腕ほどもないものだった。兎《うさぎ》の骨と思ってみれば、ちょうどそんな大きさであった。猫の骨と思われないこともなかった。しかし、その骨格がただ小さいというだけで人間の遺骨として疑わせないものがあった。それは吾平爺の遺骨の模型といってもいいほどであった。――それに、もしそれが人間の遺骨ではなく猫とか犬とかいったような動物の骨であるとすれば、焼跡にはきっと尻尾《しっぽ》の骨が魚の骨のような形で残っているはずだった。
「人間の骨に見えないか?」
和尚はもう一度繰り返した。
「どうも和尚さん、これは人間の骨のようですね」
「おめえさんたちは、焼く前によく見なかったのかね」
「なーに、伝染病だっていうもんですから、あそこの娘が出して寄越した襤褸もなにも見ずに、はあ死骸《しがい》と一緒に焼いてしまったんでさあ」
年寄りの人夫がそう答えた。
「それがいかんのだね。それが過ちの因《もと》というものだ。これはとんだことになっちまったもんだ」
「和尚さん! この小さいのだけ、どこかへ捨ててしまったらいけないでしょうかね?」
若いほうの人夫が当惑そうな目で、和尚の顔を見ながら言った。
「とんでもない! 人間のお遺骨をそんなことしたら、それこそ罰が当たるというもんだよ」
「じゃあ、どうしたらいいんですかね?」
「とにかく、駐在所が立ち会うことになっているんだから、すぐ駐在所へ知らせなくちゃあ」
「おい! おめえ行ってくんろ。ようく旦那に事情を申し上げてな」
「とにかく、来てみてくれって、呼んでくらあ」
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