点になっていた。そのうえに、百貨店ではこれまでになかったほどの廉売を催し、それになおいろいろの景品を添えていた。群衆は窓から投げられたひと塊の砂糖を目がけて集まる蟻《あり》のように、百貨店の取った商策に雲集してきたのであった。
しかし、爺はどうしてもそこを突き抜けなければならなかった。そして、その群衆のいちばん背後のほうへ回ればどうにか通れないことはなかった。
「ほら、ほら、少しどいてくだせえ」
爺はそう言って、車の梶棒《かじぼう》で人々を掻《か》き除《の》けるようにした。
「おい! 気をつけろ! 老耄《おいぼれ》め!」
「こんなところへ荷車を曳いてくる奴《やつ》があるか?」
罵倒《ばとう》の言葉を怒鳴りつけながらも、爺のために人々は少しずつ道を空けた。爺は一所懸命だった。なんと言って罵《ののし》られても言葉を返さずに、人垣の薄れていくところを目がけては車を曳き進めた。
「こらこらっ! そんなところへ車を曳いてきちゃ駄目じゃないか? これが見えんか?」
青白筋の腕章を巻いた警官が怒鳴った。交差点のGO・STOPはいまSTOPの字版を示していっさいの交通を遮断していた。
「他人の迷惑になるのが分からんか?」
しかし、吾平爺はそのままそこに立ち停まってしまうわけにはいかなかった。いまそこに立ち停まることは、今後の生活のいっさいを立ち停まるのと同じだった。今日、もし時刻に遅れて青物市場に入場することができないとすれば、ただそれだけで彼のわずかばかりの資本はすべて消滅してしまうような結果になるのだった。爺は気が気でなかった。だが、映画俳優の来るのを気長に待っている人々のために示されたこのSTOPは、いったいいつまで続くのか分からなかった。それに、ここまで来てしまえば、もはやどこにもそこを避《よ》けて回り道をする道は一本もなかった。そうでなくてさえ、時刻はもう迫っていた。爺はそこを突っ切ってやろうと考えた。そこにどんな結果が待っているか、そんなことを考えている余裕などはなかった。爺は警官の目を盗むようにして、荷車を曳いたままいっきに駆けだした。
「やあ! やあ!」
「勇士! しっかり!」
群衆が叫びだした。そして、群衆の一角が崩れた。哄笑《こうしょう》! 罵倒! 叫喚!
「こらこらっ! 待てっ!」
警官が飛んできて爺の腕を掴んだ。
「いかんと言っているのが分からんのか? こっちへ来い!」
「旦那《だんな》さま! 市場へ入る時間がなくなりますから……」
「来いったら来い。こっちへ来い」
そして、警官は荷車を曳かせたまま爺を横町へ引き込んでいった。群衆がその後ろから雪崩《なだ》れていった。
3
荷車と、それに積んである野菜物とが吾平爺の全資本であった。同時に、それは爺の全財産と言ってもよかった。今日、もしその野菜物を神田の青物市場へ曳いていくことができないとすれば、吾平爺の資本は全部消滅してしまうのだった。同時に、爺の生活もまたそこでまったく断ち切られるわけだった。
都会の膨張につれ、郊外の農耕地域の所有価値が激しく暴騰したので、郊外の地主たちは小作人たちからその土地を取り上げて都会の人々に住宅地としてそれを提供した。そして、吾平爺は耕作価値と所有価値とそのギャップにおいて、農村失業者群の中へ投げ込まれたのであった。それまでの吾平爺はわずかばかりの小作地を耕すかたわら、集落内の農家に雇われていったのであったが、耕地が住宅地になるにつれ爺を雇ってくれる農家はしだいに少なくなっていった。小作地は取り上げられ、吾平爺はどうにも生活の途《みち》がなくなっていった。
そこで吾平爺が思いついたのは、ただ一人の娘である鶴代《つるよ》を奉公に出すことであった。それは吾平爺も娘の鶴代も、二人が共に飢えずに済むただ一つの思いつきであった。吾平爺のそういう思いつきは、娘の鶴代を売り残しておいたただ一つの品物を思い出すようにして思いつかせた。爺はいくらかの前借りをして、鶴代を東京のある下宿屋へ女中奉公に出してやった。そして、自分は日雇いの仕事を漁《あさ》り、それで娘からの仕送りを補ってどうにか暮らしていった。
しかし、娘の鶴代は半年あまりで帰ってきてしまった。吾平爺はひどく驚いた。鶴代は妊娠していたのであった。吾平爺は自分たちの生活について、まったく途方にくれなければならなかった。だが彼女は、その妊娠を慰藉《いしゃ》する意味で相手の男からちょっと纏《まとま》った金を貰《もら》ってきていた。吾平爺はその金を元手として、自分と娘の生活のためにもう一度奮い立たなければならなかった。
鶴代の貰ってきた金は一台の荷車と、それに満載する野菜を買い入れるのにちょうどだった。吾平爺は一台の古い荷車を買い、近所の農家から野菜を買い集めて、毎朝
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