南洲手抄言志録
南洲手抄言志録
佐藤一齋・秋月種樹(古香)
山田濟齋訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)游惰《いうだ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|掃《さう》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「楫のつくり+戈」、第3水準1−84−66]

 [#…]:返り点
 (例)勿[#下]認[#二]游惰[#一]以爲[#中]寛裕[#上]。

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ふん/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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一 勿[#下]認[#二]游惰[#一]以爲[#中]寛裕[#上]。勿[#下]認[#二]嚴刻[#一]以爲[#中]直諒[#上]。勿[#下]認[#二]私欲[#一]以爲[#中]志願[#上]。
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〔譯〕游惰《いうだ》を認《みと》めて以て寛裕《かんゆう》と爲すこと勿《なか》れ。嚴刻《げんこく》を認めて以て直諒《ちよくりやう》と爲すこと勿れ。私欲《しよく》を認めて以て志願《しぐわん》と爲すこと勿れ。
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二 毀譽得喪、眞是人生之雲霧、使[#二]人昏迷[#一]。一[#二]掃此雲霧[#一]、則天青日白。
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〔譯〕毀譽《きよ》得喪《とくさう》は、眞《しん》に是れ人生の雲霧《うんむ》、人をして昏迷《こんめい》せしむ。此の雲霧を一|掃《さう》せば、則ち天《てん》青《あを》く日《ひ》白《しろ》し。
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〔評〕徳川|慶喜《よしのぶ》公は勤王《きんわう》の臣たり。幕吏《ばくり》の要する所となりて朝敵《てうてき》となる。猶南洲勤王の臣として終りを克《よ》くせざるごとし。公は罪《つみ》を宥《ゆる》し位に敍《じよ》せらる、南洲は永く反賊《はんぞく》の名を蒙《かうむ》る、悲しいかな。(原漢文、下同)
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三 唐虞之治、只是情一字。極而言[#レ]之、萬物一體、不[#レ]外[#二]於情之推[#一]。
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〔譯〕唐虞《たうぐ》の治《ち》は只是れ情の一字なり。極めて之を言へば、萬物一體も情の推《すゐ》に外ならず。
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〔評〕南洲、官軍を帥ゐて京師を發す。婢《ひ》あり別れを惜みて伏水《ふしみ》に至る。兵士|環《めぐ》つて之を視《み》る。南洲輿中より之を招き、其背を拊《う》つて曰ふ、好在《たつしや》なれと、金を懷中《くわいちゆう》より出して之に與へ、旁《かたは》ら人なき若し。兵士|太《はなは》だ其の情を匿《かく》さざるに服す。幕府|砲臺《はうだい》を神奈川に築《きづ》き、外人の來り觀るを許さず、木戸公|役徒《えきと》に雜り、自ら畚《ふご》を荷《にな》うて之を觀る。茶店の老嫗《らうをう》あり、公の常人に非ざるを知り、善く之を遇す。公志を得るに及んで、厚く之に報ゆ。皆情の推《すゐ》なり。
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四 凡作[#レ]事、須[#レ]要[#レ]有[#二]事[#レ]天之心[#一]。不[#レ]要[#レ]有[#二]示[#レ]人之念[#一]。
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〔譯〕凡そ事を作《な》すには、須《すべか》らく天に事《つか》ふるの心あるを要《えう》すべし。人に示すの念《ねん》あるを要せず。
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五 憤一字、是進學機關。舜何人也、予何人也、方是憤。
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〔譯〕憤《ふん》の一字、是れ進學《しんがく》の機關《きくわん》なり。舜《しゆん》何人《なんぴと》ぞや、予《われ》何人ぞや、方《まさ》に是れ憤《ふん》。
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六 著[#レ]眼高、則見[#レ]理不[#レ]岐。
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〔譯〕眼《がん》を著《つ》くること高ければ、則ち理《り》を見ること岐《き》せず。
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〔評〕三條公は西三條、東久世諸公と長門に走る、之を七|卿《きやう》脱走《だつさう》と謂ふ。幕府之を宰府《ざいふ》に竄《ざん》す。既にして七卿が勤王の士を募《つの》り國家を亂さんと欲するを憂へ、浪華《なには》に幽《いう》するの議《ぎ》あり。南洲等|力《つと》めて之を拒ぎ、事終に熄《や》む。南洲人に語《かた》つて曰ふ、七卿中他日|關白《くわんぱく》に任ぜらるゝ者は、必三條公ならんと、果して然りき。
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七 性同而質異。質異、教之所[#二]由設[#一]也。性同、教之所[#二]由立[#一]也。
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〔譯〕性《せい》は同じうして而て質《しつ》は異《ことな》る。質異るは教《をしへ》の由つて設《まう》けらるゝ所なり。性同じきは教の由つて立つ所なり。
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八 喪[#レ]己斯喪[#レ]人。喪[#レ]人斯喪[#レ]物。
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〔譯〕己《おのれ》を喪《うしな》へば斯《こゝ》に人を喪《うしな》ふ。人を喪へば斯に物《もの》を喪ふ。
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九 士貴[#二]獨立自信[#一]矣。依[#レ]熱附[#レ]炎之念、不[#レ]可[#レ]起。
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〔譯〕士《し》は獨立《どくりつ》自信《じしん》を貴《たふと》ぶ。熱《ねつ》に依《よ》り炎《えん》に附《つ》くの念《ねん》、起す可らず。
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〔評〕慶應《けいおう》三年九月、山内|容堂《ようだう》公は寺村|左膳《さぜん》、後藤|象《しやう》次郎を以て使となし、書を幕府に呈《てい》す。曰ふ、中古以|還《くわん》、政刑《せいけい》武門に出づ。洋人來航するに及んで、物議《ぶつぎ》紛々《ふん/\》、東攻西|撃《げき》して、内訌《ないこう》嘗て※[#「楫のつくり+戈」、第3水準1−84−66]《をさま》る時なく、終に外國の輕侮《けいぶ》を招《まね》くに至る。此れ政令《せいれい》二|途《と》に出で、天下耳目の屬《ぞく》する所を異にするが故なり。今や時勢一|變《ぺん》して舊規《きうき》を墨守《ぼくしゆ》す可らず、宜しく政|權《けん》を王室に還し、以て萬國|竝立《へいりつ》の基礎《きそ》を建つべし。其れ則ち當今の急務《きふむ》にして、而て容堂の至願《しぐわん》なり。幕《ばく》下の賢《けん》なる、必之を察《さつ》するあらんと。他日幕府の政權を還《かへ》せる、其事實に公の呈書《ていしよ》に本《もと》づけり。當時|幕府《ばくふ》既に衰《おとろ》へたりと雖、威權《ゐけん》未だ地に墜《お》ちず。公|抗論《かうろん》して忌《い》まず、獨立の見ありと謂ふべし。
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一〇 有[#二]本然之眞己[#一]、有[#二]躯殼之假己[#一]。須[#レ]要[#二]自認得[#一]。
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〔譯〕本然《ほんぜん》の眞己《しんこ》有り、躯殼《くかく》の假己《かこ》有り。須らく自ら認《みと》め得んことを要すべし。
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〔評〕南洲|胃《い》を病む。英醫|偉利斯《いりす》之を診《しん》して、勞動《らうどう》を勸《すゝ》む。南洲是より山野に游獵《いうれふ》せり。人或は病なくして犬を牽《ひ》き兎を逐《お》ひ、自ら南洲を學ぶと謂ふ、疎《そ》なり。
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一一 雲煙聚[#二]於不[#一レ]得[#レ]已。風雨洩[#二]於不[#一レ]得[#レ]已。雷霆震[#二]於不[#一レ]得[#レ]已。斯可[#三]以觀[#二]至誠之作用[#一]。
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〔譯〕雲煙《うんえん》は已《や》むことを得ざるに聚《あつま》る。風雨《ふうう》は已むことを得ざるに洩《も》る。雷霆《らいてい》は已むことを得ざるに震《ふる》ふ。斯《こゝ》に以て至誠《しせい》の作用《さよう》を觀《み》る可し。
[#ここで字下げ終わり]

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一二 動[#二]於不[#レ]得[#レ]已之勢[#一]、則動而不[#レ]括。履[#二]於不[#レ]可[#レ]枉之途[#一]、則履而不[#レ]危。
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〔譯〕已むことを得ざるの勢《いきほひ》に動《うご》けば、則ち動いて括《くわつ》せず。枉《ま》ぐ可らざるの途《みち》を履《ふ》めば、則ち履んで危《あやふ》からず。
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〔評〕官軍江戸を伐《う》つ、關西諸侯兵を出して之に從ふ。是より先き尾藩《びはん》宗家《そうけ》を援《たす》けんと欲する者ありて、私《ひそ》かに聲息《せいそく》を江戸に通《つう》ず。尾《び》公之を患《うれ》へ、田中|不二麿《ふじまろ》、丹羽淳太郎等と議して、大義|親《しん》を滅《ほろぼ》すの令を下す、實に已むことを得ざるの擧《きよ》に出づ。一藩の方向《はうかう》以て定れり。
[#ここで字下げ終わり]

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一三 聖人如[#二]強健無[#レ]病人[#一]。賢人如[#二]攝生愼[#レ]病人[#一]。常人如[#二]虚羸多[#レ]病人[#一]。
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〔譯〕聖人は強健《きやうけん》病無き人の如し。賢人は攝生《せつしやう》病を愼《つゝし》む人の如し。常人は虚羸《きよるゐ》病多き人の如し。
[#ここで字下げ終わり]

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一四 急迫敗[#レ]事。寧耐成[#レ]事。
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〔譯〕急迫《きふはく》は事を敗《やぶ》る。寧耐《ねいたい》は事を成《な》す。
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〔評〕大坂城|陷《おちい》る。徳川|慶喜《よしのぶ》公火船に乘りて江戸に歸り、諸侯を召して罪を俟《ま》つの状を告ぐ。余時に江戸に在り、特に別廳《べつちやう》に召《め》し告げて曰ふ。事此に至る、言ふ可きなし。汝將に京に入らんとすと聞《き》く、請ふ吾が爲めに恭順《きようじゆん》の意を致せと。余江戸を發して桑名に抵《いた》り、柳原|前光《さきみつ》公軍を督《とく》して至るに遇ふ。余爲めに之を告ぐ。京師に至るに及んで、松平|春嶽《しゆんがく》公を見て又之を告ぐ。慶喜公江戸城に在り、衆皆之に逼《せま》り、死を以て城を守らんことを請ふ。公|聽《き》かず、水戸に赴く、近臣二三十名從ふ。衆奉じて以て主と爲すべきものなく、或は散《さん》じて四方に之《ゆ》き、或は上野《うへの》に據《よ》る。若し公をして耐忍《たいにん》の力無く、共に怒《いか》つて事を擧げしめば、則ち府下悉く焦土《せうど》と爲らん。假令《たとひ》都を遷すも、其の盛大を極《きは》むること今日の如きは實に難からん。然らば則ち公常人の忍《しの》ぶ能はざる所を忍ぶ、其功亦多し。舊《きう》藩士|日高誠實《ひだかせいじつ》時に句あり云ふ。
[#ここから3字下げ]
「功烈《こうれつ》尤も多かりしは前内府《ぜんないふ》。至尊《しそん》直に鶴城《かくじやう》の中に在り」と。
[#ここで字
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