ないものは「あやめ團子」と「あぶり餅」です。「あやめ團子」は小さな團子四つを串にさして葛でどろどろに溶いた醤油をつけたものです。「あぶり餅」は菱形の串にさした燒餅でして、これには醤油のほかに黒砂糖を加へてやはり葛で溶いた汁をつけます。
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水は水だがうぶすなのそえかえびす女に戸地男(そえはせえの意)
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この狄は北狄と言ふところでして、とぢと何れも佐渡の北側にあります。東側の夷とはちがひます。東側の夷は殆んど完全に日本化して居りますが、相川以北の所謂海府地方ではまだ全然人種の違つた、昔のえびすらしい人達が住んで居ます。えびす女にとぢ男、何れも此邊の人は、同じ島でも小木邊の人とは全然違つて、鼻筋が通つた、美しい筋骨を持つた、眼の引つ込んだ、眉毛の長い、脊の高い人達です。どんな肌のなめらかさも、髮の毛の美しさも、骨格と筋肉との持つてゐる力に比べると木つぱのやうなものだと言ふことを、私は佐渡へ行つてはじめて經驗しました。利口さやリフアインさでは無い、炎天の水、饑ゑたときの食物のやうな力で、反省の暇がない位力強く生命そのものを引きつけるのは生きた健康です。美では無い力です。筋肉です。骨格です。想像や夢の生んだ戀で無く戀することの出來る女、そして結婚して男を饑ゑさせない女、疑はずに男を愛しうる女。
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いやきやさればおけ主のやうなかぼちや一つ種蒔きや千もなる
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男に奴隷のやうにこびりついて上べだけの自由を欲して我儘を言ふ他國の文明人とはちがつた處があります。
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可愛い男は百尋たつ沖で烏賊を取るやら眠るやら
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烏賊釣りは潮時がありますので、星を時計の代りにして、釣れる時釣れる時のあひまに小舟の上で眠るのです。
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可愛い男はみな下通ひに下に松前なきやよかろ
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下は北海道方面です。
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殿がかあいけりや乘るかごまでも濱に据ゑおく船までも
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これは小木の歌でせう。
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見送りましよとて濱まで出たが泣けてさらばが言へなんだ
泣いてくれるな出船の時にや綱も碇も手につかぬ
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これも港の歌です。
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殿が炭たきやわしや幌かけに殿がばいた切りや枝そぎに(ばいたは薪です。)
山で木を切る音なつかしや殿が炭たく山ぢやもの
北は大佐渡南は小佐渡中は國なか米どころ
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海産物のほかには炭と米と竹と牛肉などを輸出します。牛飼ひはおけさには出て來ませんが、全島の山に放牧してあります。時時牛が山犬に食はれた噂をききます。犬が牛を食はうとするときには、牛の脊にまづ飛び上がります、そして尻尾に近いところに食ひつくのです。さうすると牛はこれを逐はうとしてぐるぐる回り出します。牛と言ふやつは妙な動物でして、一旦何か爲事を始めると途中で中止してほかの事をすることが出來ないで、だらしなく同じ事を爲續ける動物です。五六回ぐるぐるまはりをやるとあとは何十分でもぐるぐる囘り續けるのです。段段加速度になつて來る、それでも止めない。仕舞には眼が眩んで倒れる。それまで犬は背中で待つて居て、周圍で舌を出し腰を下ろして勇者の放れ業を見物してゐた友人達と一しよに盛宴を張るのです。
斯う言ふ野犬を驅り立てる段になると流石に人間の方が偉いやうです。大勢の村民が得物を持つて澤山の野犬を岩のごつごつした谿間に追ひ込む。犬は必死になつて人間に飛びかかる。けれども人間の手には得物がありますのでぢかに飛び付けない。頭の上を飛び越すのです。人間は低いところに居て犬の飛ぶに連れて犬に背を向けないやうにくるくる方向を轉換して居れば可いのですが、流石に人間は目をまはすやうな回り方をしませんので、卻つてしまひには犬の方が疲れて目が眩んで來るのです。勿論人間は一人も喰ひ付かれたものは無く、岩角で擦剥いたり茨で裂かれたりした傷位をお土産にして歸つて盛宴を張るわけです。
佐渡の牛は本來のものは黒牛ださうです。雜種はすべて南部牛と言つて居りますが、繁殖の方法も放牧中の自由に任して人工的方法を用ひないのですから、全島を通じて同じ樣な體格になつて居ります。第一に眼につくのは全體の小柄なこと、胸に垂れ下つた皮の無いこと、腹から腰へかけてことに引きしまつてゐること、足の早いこと。よほどの急な勾配を平氣で上下して居ります。
時には潮の引いた淺い海を渡つて岸近くの島に渡つて夕方になつて歸れなくなつて陸の方を眺めて鳴いてゐるのもあります。時には突き出した崖から谷底に滑り落ちて死ぬのもあります。持ち主に知らせるにしても斷崖は上れません
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