つてゐないものはありませんでした。東京附近の平原に住む女のやうに練馬大根のやうな細い太いのない足は見當りませんでした。
 男は新潟で見たやうに外套を二重に着て居るのは見掛けません。足駄の爪掛に毛の着いたのを着て居るのは相當見掛けますが、外套の襟手首などに毛皮を着けたのは一寸見て餘處の土地から來たと感じさせる位で皆無と言つて宜しいが、外套には、女のマントも同樣ですが、必ず頭巾が着いて居ます。外套の丈もマントの丈も殆ど踵まで屆くほどの長さです。
 來客があると炬燵のある部屋に案内する。客は遠慮なく炬燵に膝を突込む。炬燵の外に火鉢も出ると言つた調子です。
 暖い日の週期が土地慣れない私には却つて辛く感ぜられました。暖い日の間に少し油斷の出た神經を更に復新手の寒氣が襲ふのです。そしてその寒い期間は晝夜の分かちなく冷えるのです。東京では寒く感じたりつめたく感じたりするのが、相川ではただ冷えると感じるのです。坐つて居る疊から骨を傳はつて全身を内部から冷やすのです。一枚の大きな石英岩を土臺としてゐる相川は家の柱の土臺石から凍り切つた地盤一面に總べての生物の温みを吸ひ取るのではないかと思はれるのです。霜柱一つ立ちません。温い日の間に溶けた雪が眞つ黒な板となつて甲鐵のやうな道を覆ひます。晝日中室内に居る人の鼻や口から絶えず煙草を吹かす人のやうに白い煙が出て居ます。東京ならば寒い戸外を急いで歩く時皮膚の表面は如何に冷くとも體内に抵抗力が潛んでゐて、室内乃至風の來ない日向に來れば反動として温かく感ずると言ふことがあります。相川ではさう言ふ樂しい豫想は全然ないのです。私のやうに酒の飮めない人間に取つては入浴と山登以外に體を温める方法はないのです。
 その湯がまた有難くない湯です。湯屋の數は町不相應に澤山ありますが最近に警察から命ぜられたとかで一軒例外の家が出來ましたが、それまでは全部湯屋湯屋で一日交代に立てるのです。午後三時から立つのですが、夜行くと湯船の底に臭い生温の水が膝つきりしかないのです。上がり湯は既に水になつてゐます。女湯と男湯とはすぐと上の方まで、もつとも天井は低いのですが、全然別に仕切られてゐます。湯氣がもうもうと籠もつて暗い電燈を包むのです。湯船もながしも石とコンクリイトです。湯垢が窪み窪みに溜つてぬるぬるして居ます。その上に板つぺらが投出してある。その板に尻を乘せてふちのすり減らされたぬるぬるの桶で體を洗ふのです。石鹸を生まれてから一度も使つたことのない人も居ます。知人に逢ふと東京ならば流しませうと言ふ處を掻きませうと言ふのです。文字通り爪で脊中の垢を掻き合つて居るのです。桶が今言つた通りなので男でも湯屋に金盥を持つて行く人が相當にあります。寒中でも上り湯がぬるいためか大抵の人は水を浴びてゐます。湯屋によると門口の戸一枚で中じきりの戸を寒中でも付けない家もあります。
 湯に入る前に體をしめす習慣もありません。女湯で歌をうたつてゐるのが聞かれます。
 歌の好きなことは他の町に比類がないかも知れません。年中町の到る處で男女の歌が聞かれます。おけさ、安來節、追分などが重なもので都都逸二上り新内のやうなものは滅多に聞かれません。中山晉平氏、本居長世氏のものも相當歌はれて居ます。女が一日働いて夜更けて友達を訊ねて歌ひ合ふ風もあります。芝居小屋の小さなのがあります。碌な役者は來ませんが浪花節だけは相當のものが來ます。いつも相當の入りを取ります。
 歌と踊の好きな町民が思ふさま歡樂を盡すのはしかし夏を待たなければなりません。
 四月に這入ると雪が雨になります[#「なります」は底本では「なるます」]。雨になるに連れて降る時間が一日の中の僅な時間だけになります。そして一日の中の何時間かは必ず日が照るやうになります。五月に入るとからりと晴れた日さへ見られることがあります。雪割草の淡紅から深紅乃至紫までの花が谿間に咲きます。次に岩鏡の紅色の房が艷艷した葉を覆ふやうにして咲きます。あまどころ、えんれいさう、その他名の知れない森林植物が咲きます。少し注意深いものには容易く雙葉葵の葉蔭に芳つてゐるのを發見することが出來ます。
 死んだやうに成つてゐた櫻や梅が急に芽を出して花を咲きます。東京の植物は落葉の時に既に小さな芽を落ちた葉の痕に持つてゐます。相川の植物は急激に襲ふ寒氣の爲に樹の表面は盡く死んでしまふものと見えて、冬を通して風當りのない谿間ではその葉を落としません。腐りもせず、落ちもせず恐らく黄葉もしなかつたらうと思はれる形で、青葉の儘毒を注射されでもして死んだのではあるまいかと思はれるやうに、その儘の形で枯れて枝についてゐるのです。恐らく堅い甲冑を着けてゐない枝の先は表面の皮の底まで通る寒さのために枝ごと死んでしまふのだらうと思ひます。どの樹も春になつて
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