を迎へました。
 然し斯う言ふ氣持の好い日がからかふやうに顏を出した後に峻巖な冬が續くのです。霙と霰と雪とが代はる代はる風に吹かれて窓を打ちます。沖となく岸となく荒れ狂ふ白浪は、今まで吹き付ける白いものの途絶へた隙から見えてゐたと思ふと見る見るうちに吹き散る雪や霰で見えなくなります。ただがうがうと荒れる浪の音ばかりで、岸で碎ける浪のしぶきと粉になつて散る雪とが交つて、町全體の屋根にかぶさります。濱が一面の怒濤に覆はれて濱深く立つた家の土臺の石垣を洗ふのです。
 斯う言ふ日に早く暇を得た時には私は山に登りました。
 相川といふ町は、町家と鑛山の熟練職工と漁夫との家が崖下の荒磯の上に海に沿つて一里近く竝んでゐるのと、之と丁字形に山の一つの尾の上に長く延びた邸町と鑛夫部屋とから出來てゐます。私の最初着いた時の家もその後荷物が來てから移つた家も磯に立つた部分の町なのです。最初はとにかく構はずに長靴でスヱツタ着て頭巾にもなる帽子をかぶつて出掛けました。山の上の町をはてまで行つて奉行時代の廣大な町の跡を見て驚きました。一里近くの山奧に石の垣の遺物があり墓石ばかりの寺の跡があります。この山の尾の北の谿谷を北澤、南の谿谷を南澤と言つて、北澤は鑛山の入口精錬所の建物に奧深くまで占領されて居り。南澤には荒寺に交つて民家と僅かばかりの田があるのです。北澤は春先雪割草岩鏡などの咲き亂れる雪解の遲い谿で、夏は此附近で一番凉しい處です。南澤は寧ろ冬暖かな谿で春は櫻や梅の咲く處です。山の尾も山のせも單調に延びてゐません。せの中に尾があり尾の中に小さなせがあり、すべて岩石の間を節の高い身のしまつた竹と金屬性の力を持つた這松茨藤蔓などが岩を割るやうにして生えて居ます。
 竹の葉に雪が載つてゐる。籔の中は薄暗いトンネルになつて居ます。分けると襟と言はず肩と言はず雪が降り掛かる。出鱈目に手を出すと何本かの竹が握れる。出鱈目に足を出すと必ず何本か密生して居る竹の根に引つ掛かる。これを手頼りとして何處までも昇つて行く。頭の上の竹の葉を渡る風の音は物凄い。いくら行つても籔ばかりで首の出せない時は此儘で歸れずに力が盡き腹が空つて體が冷えて死んでしまふのではないかと考へる。葉から降りかかつた雪は解けて脊中まで濡らしてゐる。手から一|分《ぶ》の何十分の一の外の手套の上には一旦溶けた雪が更に氷つて指の屈伸の跡を殘して氷り附いてゐる。それを囓る。
 しかし風當りの強い崖で首の出せる場處に來て遙か下を見下ろすのも心細い。空から上から下から横から吹き付ける雪。それを殊更に強調する樣にいきなり横つらから目に掛けて厭と言ふ程撲り付ける雪の塊と竹の葉。風の中で息をするために鼻と口とに手を翳す。片手で手頼りにしてゐる竹が無暗と搖れる。雪の凍り付いた眼金を外して舌で甜める。體が冷えて來る。堪らないので又雪の下に潛り込む。我無遮羅に攀登る。樹がある。捉まるとぽきんと苦も無く折れる。藤蔓を試しに引張る。
 頂上から向ふは急な崖だ。竹を兩側に掻込んで足をぶらさげる。股倉に何本かの竹がはさまる。その竹に片腕を掛けて脚を脱いで復ぶら下がる。
 竹が無くなる。樹から樹を覗つて飛んで行つては抱き附く。抱き附いた樹が生憎枯れて居て勢のために大きな枝を着けた儘轉がり出す。小枝が眼に這入る。雪の粉を飛ばして轉がる。
 斜面が來る。樹の一本もない斜面だ。尻を雪に埋めて兩足を前に出して辷る。兩臂で舵を取る。途中の小さな樹に片脚が掛かる。股が裂けさうになる。片手で樹に捉まる。それでも止まらずに轉げ落ちる。成るべく大の字なりになる。それでも止まらない。しまひに谿川に首と手を突込んで止まる。岩に足をふん張つて持つて來たキヤラメルをしやぶる。
 斯んな事をして歸つて濃い熱い茶を飮んで甘い蒸菓子を食べるのが一番いい冬の暮し方なのです。家の建築が粗末なので酒の飮めない私にはぢつとして居たら凍え死んでしまひさうなのです。部屋の中にゐても耳まで凍るやうなのです。壁は荒壁一枚張です。屋根は木つ葉に石を載せただけです。俗に壁通しと極寒い日を言つて居ます。隙だらけの壁と隙だらけの木つ葉の[#「木つ葉の」は底本では「木つ菓の」]間から粉雪が家の中に降り込んで、場所によつては相當積もるのです。
 いきなり冬を見た私は土地の人の風俗の質素なのに感心しました。夏になつて驚嘆したマイヨオルの作つたもののやうな脚のしつかりと地に着いた體格の女が、寒氣を防ぐためにありつたけの襤褸で武裝して、色の褪めた大シヨオルを頭からかぶつて素足に藁草履で歩いてゐるのです。虱は大抵の娘には附物です。シヨオルをかぶつて居ない女はマントを着てゐます。從つて私の女に對する好奇心は足にだけ集中されました。鋼鐵のやうな彈力を持つた引き緊まつた足首か、青銅のやうな重みのある足を持
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