處へ來て聞いた話ではいづれも今も子孫の殘つてゐる瀧浪と言ふ家の先祖だと言つて居ります。瀧浪家は御維新まで代代醫を業として居つて代代玄伯と言ふ名であつたさうです。何代目の玄伯であるかは訊きただして見たら分かるかも知れませんが、私にその話を聽かせてくれた人達は知りませんでした。玄伯にしても松慶にしても話は同じ筋です。
 寒い晩の夜更けに急病の迎が來た。駕籠の用意をしての迎であつた。駕籠の通つて行く途が變だつた。駕籠で着いた先は立派な兩開の門のある邸だつた。門から式臺まで四五十間もあつた。式臺には袴羽織を着たものが四五人出迎へた。主人と言ふのは七十餘の僧形の人で白の小袖に十徳を着てゐた。訊いて見るとその末子が怪我をしたのだとの事。金銀の屏風を引※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]した病室には、年の頃まだ十三四の美少年が鉢卷をして脇息に凭れて居た。怪我は刀の切尖で突いた傷だつた。血止めの藥と調合した膏藥とを置いて戻つた。
 これだけは「もしほ草」も私が耳から聽いた傳説も同じだが、「もしほ草」の方では、歸つて駕籠のものを犒はうと思つて出て見たが既に姿が見えないので、召使ひにあとを追はして主
前へ 次へ
全19ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
江南 文三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング