裂け目を縱にして並んでゐる上に更に他の大岩が土と樹と草とを戴いた儘載つてゐるのです。太古の不思議な智慧と力とを持つた人類がピラミツドを築き得たその力なり方法なりで斯う言ふものを作り上げたのではないかとも思はれましたが、相川町の北のはづれに辨慶挾み岩と言ふのがありまして、まさしく石灰岩の美しい肌から石英粗面岩へうつる境めの黒い汚い岩の不規則な腐蝕のために昔高い處にあつたのが墜落して下の岩の虧けめに挾まつたのだと推測されますので、これもやはりそのたぐひだらうと思ひました。
この祠の右の割れめからも、兩方の岩の間を體を横にして足首を一方へ曲げて廣い穴の中へ飛び込めさうです。
この祠を二つ岩大明神と言ひ、貉を祭つてあるのだと言ふ話です。
この二つ岩の穴の中に昔團三郎と言ふ貉が住んで居たと言ふのです。今も貉が住んでゐるさうですが、それは團三郎貉であるか、或はその子孫であるか判然しません。
享保の初、冬になりかけの時分のことだと、安永七年に出版された「怪談もしほ草」と言ふ本に出て居ります。この本によると、相川の北のはづれの柴町と言ふ處に住んでゐた窪田松慶と言ふ外科醫になつて居ります。私の此
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